波紋の雫は六月に流れて

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* モデルをしてくれているお礼だから、と言って雫くんは私に食事を振舞うようになった。 「食べることは生きることの基本だよ」 「……だからってパンを生地から作る必要はないと思う」 「食べたい小麦粉があったから」 キッチンで手を白くしながら、彼は生地をカウンターに叩きつけた。ばちん、ばちんと中々聞きなれない衝撃音とともに粉が舞う。 「小麦粉単体で食べたいなんて普通は思わないよ。雫くんはどこかひととは違うよねぇ」 「どうも」 「褒めてないけど。……今日はモデルをしなくていい?」 「いや、発酵の時間にデッサンはすすめたい」 パンパンと手を叩き、片付けた後、スケッチブックを奥の部屋から持ってきた。私がいつもの席に座ると、雫くんは斜向かいのソファに腰かける。熱心に見つめる瞳に自分が描かれているのだろう。何とも感じなかった心はこの部屋に通うようになって、少しだけ輪郭を得られたような。終わらせたいとあんなに思っていた時間は、スケッチが終わるまで、色を乗せるまで、完成系を見せてもらえるまで、と先へと伸びてゆく。どうせだからと、そのままにしていた仕事は正式に辞め、退職金はいくらか貰った。生きていくために重要なことは目に見えないものが多いと雫くんはこの前、口にしていたけれど、生きていくためにはお金が必要だ。少しの蓄えしかないと言ったら、食事はここですればいい、と雫くんは言った。 「料理、得意なの?」 「ぼちぼち。なんでもやってみたらある程度まではできる」 「……天は二物を与えずって言うけど、雫くんの場合は違うみたいだね」 「うん、よく言われる」  思わず声を出して笑ってしまった。アングルが狂うと注意されるかと思ったけれど、雫くんも一緒に笑った。 彼は、嫌味も褒め言葉として受け入れる(くせ)があって、私はそんな彼に何度も毒気を抜かれた。 「いいね、今の描写が終わったら、笑顔バージョンも描くよ」 「……梅雨の間だけじゃなかった?」 「うーん、……延長しよっか?」 「……その言い方は少し雑かな」 「じゃあ、まだまだ一緒に雨音を聴きませんか? なーんて……、二次発酵が終わった。形成してくるから楽にして」 あれ? 妙なデジャブに胸が騒ぐ。瞬きを繰り返して、記憶を探しても、誰の何の言葉だったかは出てこない。  キッチンに立つ雫くんは慣れた手つきで生地を丸める。節張った手は本当に器用だ。待つ間にテレビでも見ようかとチャンネルに手を伸ばす。夕方のニュースは良く知った美しい人を映し出した。 「この度、現代アート作家である鳴上雫さんにお越しいただきました。えー、美し過ぎる現代芸術家と言われ、風景画から抽象画、モダンアート、サウンドアートに至るまで幅広い分野で活躍されています。では簡単な経歴をーーー」 「雫くん……」 「んー、もうちょっと待って。パンは手間暇がかかるんだよねぇ」 「テレビに出てるよ?」 「え?」  夢中だった作業をやめ、彼は急いでテレビを覗き込んだ。すぐさま私の手にあったチャンネルを奪い、画面を消した。 「……なんで消すの?」 「だって」  雫くんは見たことがないような赤い顔で首を振った。 「いやいや、さすがに恥ずかしいでしょ。内側(うちがわ)の人に外面(そとづら)見られるの」  驚いたのは雫くんが私を内側の人間と認識していたこと。  彼とは高校時代の同級生で、それが偶然モデルを引き受けるようになって、今はそれ以上でもそれ以下の関係でもない。なのに、その動揺がダイレクトに伝わった。 「……私、雫くんの内側のひとなの?」 「……外面だけ見せているひとにモデルなんて頼まないだろ? それに……」 「それに?」  少しだけためらって、彼は息を吐いた。 「この前の、月が綺麗ですね、……続きは?」 「あぁ、夏目漱石の? あれから少し考えたけど、思い出せないな」 「……だよね。憶えていたら、名前は出てくるだろうな」  やれやれと首を振って、平静を保つよう雫くんはスケッチブックを手に取った。 「……まぁ、いいや。続きを描くから、席に戻って」  椅子を弾き、身を下ろすと雨が窓を叩き始めた。  濁ってゆく窓を見て、振動に近いわずかな雨音に耳を澄ませていると小気味よく滑る筆の音がそれに紛れた。
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