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色鉛筆にしたから、とスケッチブックに色を乗せ始めたのは、出会って3週間は過ぎた頃。
梅雨明けが西から順番に発表される中、私たちの町にもそれが知らされる時期だった。
「同じ服ばかり着せて悪かったね」
と、彼は白いシャツから着替え終わった私に冷えた紅茶を出した。
今日はパンなんて時間のかかるものはつくらないから、とナポリタンを出してくれた。洋食が好きなのか、彼は日本食よりも海外由来のものを好む傾向がある。例えば、お味噌汁よりコーンスープ。白米よりパン。お茶より紅茶、など。
「本当は色鉛筆より、油の方が発色は好き。だけど、匂いが苦手で。部屋もやたら、消毒液の匂いがしてるでしょ?」
「うん、理由があるの?」
「あるよ。抗がん剤って免疫力を下げるんだよね。ここ最近は薬もいいものができたらしくって、毛が抜けるとかの副作用は抑えられてるものが多いらしいけど。俺の場合は、骨髄抑制が強くって、今はそのギリギリの期間だから、部屋をやたらと消毒してる」
「え」
「言ってなかったっけ?」
「うん、聞いてなかった」
「あー、言ったと思うけどなぁ」
「……いや、聞いてないよ」
「……それなら、今言ったから、いいよね」
さらりと落とされた事実に、どう反応していいか分からないでいると、そもそも、と彼は口を開いた。
「あの雨の日、俺のこと憶えてたから傘を差し出してくれたのかと思った」
「……違うよ」
「うん、もう知ってる。葉ちゃんがあの歩道橋に現れたのは10回目で、今度こそ飛ぼう、ってぶつぶつ言ってた」
「なんっ、で」
見られていた事は気づいていなかった。それだけではなく、自分で自分を奮い立たせながらも、死ねなかったことも見透かされていた。
「……俺は、よく歩道橋の下から行き交うひと達を観察してた。みんな何処に行くんだろう。仕事かな、学校かな、それとも遊びに行くのかな、ひとを描いていたけど、描いても、描いても、ただひたすらに描き続けても、なに考えてんのかなんて分かんないからね。ただ、描くことで、ひとと言う生き物を抽象的に知るのではなくて、具体的に知りたいと思った。それこそ曖昧な輪郭を」
雫くんは赤い色鉛筆を置いて、私を真っ直ぐに見つめた。
怖いほど澄んだ瞳。
私の芯を掴むように、ただ真っ直ぐと。
「……不幸も幸せも生きていないと感じられないって、陳腐な言葉だけど……、命は1つしかないからね」
そんな事は知っている、と言い返したかった。たぶん、雫くん以外のひとにそう言われると、言い返していた。
「……まぁ、かなしいこともあるけどさ、高校時代に好きだった子がやっとモデルになってくれるような嬉しいこともあるし、人生は何が起こるかわかんない」
悟ったようにそう言って、彼は置いた赤鉛筆を再び握る。
「取り敢えず、時間が勿体ないから、描く」
何も言えないまま、窓へと向いた。いつものアングルは横顔で、視線が合わせられないことに、幸にも不幸にも、考える時間が生まれる。
―――アイラブユーを、月が綺麗ですね、と略したのは誰でしょう?
スケッチする相手が図書室にいなくなったから、雫くんは暇を持て余しているんだろうと、本気で取り合わなかった言葉。
相手は男の人なのにきれいで、才能溢れるひと。私とは違う。そう、私は私に思い込ませていた。夢中になれるものを早くから見つけた別の世界のひとだ、と。
―――夏目漱石。
答えると、彼は、俺はーーー、と続けた。
―――俺は、雨音が響いてますね、にするよ。そうすると、一緒に耳を澄ませることができる。
「……雨音が響いてます、か」
あの時、私はなんて答えたのだろう。少なくとも、今まで忘れていたのだから、当たり障りのない、平凡な言葉を返したのだろう。
「……何か言った?」
「ううん、何も」
「そのまま動かないでね、髪がひかる様子はすぐに変化するから」
「分かった、雫くんの言う通りにする」
忘れていてごめんなさい。
それから、傘を受け取らずにいてくれてありがとう。まだ、自分に価値があるとは思えないけれど、描かれている間は、大きな劣等感に溺れないように、どうにか息を続けてみようと思う。
「言う通りにしてくれるんだったら、ついでにもう1つお願い」
「何?」
「……俺が作品を完成させるまで、死んじゃダメだよ」
空からは再会した頃のような雨音はやってこない。
この絵ができる前に私が彼に返せるものは、雨音が響いてますね、の答えぐらい。文豪のような発想はないけれど、私たちがいつ死んでもずっと響いていて欲しいね、ぐらいの、後ろ向きな希望は伝えてみよう。
きっと、彼は頷いてくれる。
END.
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