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「誰かに愛してるって言えるほどの覚悟もないけど、もう一度愛してほしいって言えるほどの勇気も今更あたしにはなくてさ。それでも、自分ひとりじゃどうにもならない夜があってね。だからきみに会いに来た」
真夜中だった。急な電話からそれほど時間が空かないうちに、先輩は僕の住むアパートにやってきた。いつも快活そのものな先輩の言葉は、今は妙に端々が湿っている。これまで頑張ってなんとか溢れ出ないようにしていた感情の器が、破れるなりなんなりしたのだろう。少し前にこぼれ出たであろうそれが、今も先輩の声色からぽたぽたと滴っているような心地がする。
その破滅のきっかけになった一雫は、一体誰の手によって落とされたものなのか。いくら気になったとしても、そこを根掘り葉掘り訊かないのがマナーというものだ。僕はだまって先輩の次の言葉を待った。
「いやぁ、あたしとしたことが情けないね。たかが男に振られたくらいでさ。しかもその後、男の後輩に頼ろうとしてるんだもん。こんな夜中に。自分でもほんとクズだと思う」
「それは、ほんとですよね、って笑い飛ばしたほうが先輩は救われますか?」
「わかんない。でも自分がひとりで笑うより、きみが笑ってる方が、あたしは重要に感じるかな」
「先輩は笑わないんですか」
「きみが笑ってくれたなら、きっとあたしも笑えると思う。だって、あたしが笑ってたってきみはいつも澄まし顔しかしないじゃん」
あは、と力なく笑う先輩の顔を見ていると、口元が緩みそうになる。ぐっと抑える。感情が零れそうになるのを、なんとか踏みとどまらせようとする。
ああ、でも。先輩。
ずるい人ですね。
「なんか」
「うん?」
「先輩がその、付き合ってた人に振られた理由が推測できたんです」
「お? 聞かせてもらおうかな。今後の参考にするかどうかは別として」
「クレーム対応の仕事は絶対しないほうがよさそうですね、先輩は」
「はは。もちろん嘘だよ。……なに」
僕は「に」のあたりで、先輩のすぐそばまで顔を近づけた。ぇ、と先輩が洩らした息が届きそうな距離。香水のにおいの奥に隠されていた、先輩自身が放つ物質。至近でそれを浴びて、肌が粟立つような感覚が伝わってきた。
ああ、これ、だめかもしれない。
今度は、僕が決壊する番かもしれない。
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