Day15. なみなみ

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Day15. なみなみ

 このところ雨が降ったり止んだりしている。降っている時は騒音並みに雨音がうるさいし、止んだ時は猛暑という言葉では足りないほどに蒸し暑くなる。  朝方までの雨が止んだので、その日、幼い僕は外へ遊びに行くことにした。ランニングシャツ一枚に、短パン、素足にサンダル。田舎っ子同然の格好は憧れでもあった。祖父母の家に遊びに来た時だけだ。東京じゃ友達や知らない人に見られたら笑われてしまうから。  残念ながら虫取り網は物置の中でぼろぼろになっていた。僕は手ぶらで、家の周りを見て歩くことにした。森の中にある祖父母の家の周りはどれだけ歩いても飽きることがない。虫や鳥や動物や、放置され続けた土嚢(どのう)やスコップなんかがたくさんある。  その日見たのはバケツだった。端のかけた、子供用のバケツ。軽トラック一台が入れるような砂利道に、それはぽつんとあった。田んぼと田んぼの間の道は昼間はほとんど人が通らない。けれど、雑草で轍がはっきりと浮かび上がっているこの道はそれなりに車が通る。どかさなきゃ、と思った。これを車が踏んだら大変だ。  バケツへと駆け寄った。はっきりとした黄色の取手がついた青色のバケツは道の真ん中に立っていた。風で飛ばされてきたというより、誰かが置き忘れていったみたいだった。  そばにしゃがみ込んで、僕はバケツの中を見た。  少しでも傾ければ水がこぼれてしまうだろうほどに、たっぷりと雨水が入っていた。底の方に砂が少しだけ沈んでいる。澄んだ水はうっすらと晴れた空を映していた。もう少し首を伸ばしてみれば、僕の顔もうっすらとバケツの中に映り込んだ。  ふ、と。  バケツの中の僕の顔がはっきりと見えるようになった。バケツ全体に影が差して、色がはっきり見えるようになったのだと気付いた。バケツの中に、口を半開きにしてバケツを覗き込む子供がいる。真上の空にある太陽がその子の頭にちょこんと乗っかっている。  おかしい、と思った。今、バケツ全体に影が差しているのに、バケツの中の水面に太陽が映っている。  どうしてだろう、と僕は首を回して後ろを振り返った。  ――バシャン!  振り返ろうとした瞬間、バケツが倒れてしまった。腕がぶつかってしまったのだろうか。「あっ」と声を上げてバケツへと顔を戻す。  コロン、とバケツは水をぶちまけて転がっていた。僕が映っていた水面は、薄く伸びた生き物のように砂利道の坂を下りていく。  僕は慌ててバケツに駆け寄り、それを起こした。空になってしまったバケツの中が目に入った。  ――水が、溜まっていた。  今しがた雨が降ったかのように、バケツに水がたっぷりと溜まっていた。周囲は僕がこぼした水で濡れている。尖った葉の雑草が雨上がりのように艶やかに光っている。そして、まるで誰かが覗き込んでいるかのように、バケツの中は既に暗くなっていた。  バケツから手を離して僕は走り出した。走って、坂を下りて、上って、下りて、そうして祖父母の家が木々の中から見えてきた頃、ようやく僕は立ち止まって後ろを振り返った。  僕の後ろには誰もいなかった。 ----- 20220715
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