Day17. その名前

1/1
前へ
/31ページ
次へ

Day17. その名前

 その井戸は屋敷の片隅にありました。木枠で蓋をされたそれはいわゆる枯れ井戸と呼ばれるもので、釣瓶(つるべ)の桶を下ろしても水音が聞こえてくることはありませんし、覗き込んだとしても見えるのは底知れない暗闇だけにございます。普段は見向きもされないのですが、夏の夜になると肝試しという名目でこの井戸を求める方が多くございました。曰く、井戸の中に女がいるだとか、中を見たら数多の手に引き摺り込まれるだとか、あるはずのない水を飲んだり浴びたりするとあの世へ連れて行かれるだとか。それらしい怪談が人々によって語られているのでありますが、真実はというと、いずれも作り話にすぎません。わたくしが言うのですから本当です。  さて、ある日のこと、わたくしが井戸の近くを通りましたところ、何やら声が聞こえて参ります。おうい、おうい、というその声は誰かを呼んでいるようでございました。はて、その声に聞き覚えがあるような。わたくしは首を傾げ傾げ声を辿り、そうして井戸の蓋が外されていることに気が付きました。 「おうい」  よく聞けばその声は隣の家のお坊ちゃんのものです。肝試しが大層お好きで、この枯れ井戸のことも大層お気に召しておりました。井戸の中に落ちてしまわれたのでしょうか。何ということでしょう。 「お坊ちゃん」  わたくしは井戸の縁へ手をかけて中を覗き込み叫びました。 「おうい」  声が再び聞こえてきます。 「お坊ちゃん、お坊ちゃん。今お助けいたします」 「おうい、おうい、助けてくれ、助けてくれ」 「ええ、ええ、今すぐ。釣瓶を落としますから、それに掴まってください」 「助けてくれ、助けてくれ。寂しい、寂しい」  釣瓶を落としカラカラと縄を下ろしながら、わたくしはお坊っちゃんへと叫ぶのです。 「もう少しでお助けできますから」 「寂しい、寂しい。名前を、名前を呼んでくれ、おれの名前を」  お坊ちゃんはさめざめと泣いておりました。 「忘れてしもうた。教えておくれ、おれの名前を」  なんと痛ましい。さぞかし長い間、井戸の中にいたのでしょう。縄の先から引っ張ってくる手応えを感じつつ、わたくしは縄を引っ張ろうとすると共にお坊ちゃんのお名前を叫ぼうとしました。 「奥方殿、ちょうど良いところに」  わたくしはそちらへと顔を上げて、呆然といたしました。  門からこちらへ、お坊ちゃんが駆け寄ってくるではありませんか。 「今度従姉妹(いとこ)が遊びに来るんじゃ、この井戸を見せたくてのう。……おお、蓋が開いておる。ちょいと中を見せてもらえるじゃろうか」  わたくしは手にしていた縄を手放しました。カランカランと車輪が回り、縄の全てが井戸の底へと吸い込まれていきました。  あの日以降、わたくしは井戸の中を覗き込んでおりません。 ----- 20220717
/31ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加