Day19. 氷

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Day19. 氷

 びぃん、びぃん、と耳の中に蝿を入れたかのような騒音が、手のひらに乗るほどの大きさの虫が立てている音だと知ったのは、つい最近のことでした。 「全くもって五月蝿(うるさ)いったらありゃしない」  どかりと軒下に座れば、家の主である女がくすくす笑いながら隣へ腰掛けてきます。 「これも夏の風物詩なのですよ。しずかさや、いわにしみいる、せみのこえ」 「どこが静かなものですか。私のいた山奥の方が何倍も静かだ」 「この場合の『しずか』は音ではなく見た目の話ですよ。閑散としている、の『閑』の字をあてるのです」  言い、彼女ははだけかけた浴衣の胸元を寄せ合わせながら笑いました。その様子を私はじとりと見遣って「これだから化け狐は」とため息をつきました。 「みっともない真似をするんじゃありません」 「人間は雌の胸元に弱い。それも普段隠しているものを不意にちらりと見せてやるとですね、あっという間に我に惚れ込むのですよ」  言いつつ再び浴衣の胸元を広げようとするので、私は再び大きなため息をついてやります。この化け狐は遊び好きで、私とは全く気が合いません。金魚なる魚の描かれた薄水色の浴衣が台無しです。 「それで、どうです、人間の生活には慣れましたか」 「全然。まず、物が多すぎます。洗濯一つするのにどれだけの物資を使うんですか彼らは」 「洗濯用洗剤、柔軟剤、洗濯用ネットに、あとは」 「洗濯機、乾燥機。匂いをつけるびぃずとかいうのもある。小うるさいあなたの誘いに仕方なしに乗ってみたものの、早速嫌になってきました」 「我々は川の水ひとつで済みますからね」  はい、と狐が何かを手渡してきます。冷えた瓶です。手一つで持てるほどの大きさの青緑色の小瓶で、中央上よりに窪みがあり、中に泡の生まれる液体が入っています。私は「おお」と身を乗り出しました。 「さいだあですか!」 「お好きですよね」 「うん。これだけはあなたと共に来て正解だったと思いました」 「ふふ、そんな可愛らしいあなたに一つ知恵を授けましょう」  ぺりり、とラベルを剥がした私の手が蓋を開けようとするのを、彼女は指を添えて止めてきました。奇妙なことをするものです。見遣れば、彼女は憂いの宿る人間らしい顔立ちをいっそう悲しげにするのでした。 「そんな顔をしても私は揺るぎませんよ」 「ふむ、人間にはとても効くのですが。――サイダーを凍らせると、ただの氷になるのですよ」  言い、彼女の指は私の手を撫でました。 「炭酸入りの氷にはならない。水に溶けた二酸化炭素は、水が凍ると外へ追い出されてしまうのです。だからもし、この瓶ごと凍らせたら」 「……自ら破裂する」 「ええ」 「何が言いたい」  端的に(たず)ねれば、彼女はいっそう眉を下げるのでした。 「人間は暖かい生き物だったという話ですよ。だから我々の存在は妖怪として許された。けれど、人間が冷え切った今、我々は許されないものになってしまった。その不寛容さはいつか、人間を自滅させるやもしれませんね。……それで木霊(こだま)殿、あなたはここで生きてくれますか?」 「さてね」  私は狐の手を振り払い、瓶の蓋を開けました。白い煙が薄らと立ち上ったその口へと唇をつけます。 「自分が妖怪たる理由を伏せてまで存命することの何が正しいのか。……でも、ま、夏だけは人間になってあなたの家に来るでも良いですね、さいだあのために」 「ひとりぼっちな我の唯一残った友としてではなく?」 「狐の甘い言葉は聞かぬことにしております」 「おやまあ、手厳しい」  狐が柔らかく笑うので、私はにぃやりと笑い返してさいだあを飲みました。  私は蝉なるものの五月蠅さも洗濯の煩雑さも嫌いですが、このひとときは嫌いではありません。 ----- 20220719
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