Day21. 短夜

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Day21. 短夜

 ほう、と蛍の光がそばへと来ましたので、私は顔を上げました。見上げた空は柳の葉に覆われております。見渡す限りの景色が全て暗闇に覆われ点々と明かりを灯しているので、今が夜だということはわかりました。私は随分と長いこと、この木の下で立ち尽くしております。それがいつからかは覚えておりません。いつかはこの木の下から立ち去らなければならないこともわかっております。  それでも私は、やはりこの柳の木の下で人の往来を眺め続けようと思います。時は経ち、路面は砂利ではない黒色のもので塗り固められ、人々は牛車ではなく馬でもない箱型の車なるもので外出するようになりました。着物ではなく一枚布を縫い合わせた上衣と股のある穿き物とを合わせた装いは私の生きていた頃とは全く異なるものです。私はもはや生者を装うには古すぎました。  それほど長い時を、私は過ごしてまいりました。  柳の下から出て、私はそばに架かる橋へと足を向けます。先程私の隣に来た蛍はどこにも見当たりませんでした。そもそも、この辺りは蛍が住まうには山を降りすぎているのです。私はかつて、この川の上流で蛍の大群を見たことがありました。この辺りで見かける蛍は、川を伝って山を降りてきた蛍でしょう。  橋の半ばまで行き、私は立ち止まります。それに応えて、橋の上にいた人影はそうっと私へと振り返るのでした。  艶やかな黒髪の、美しいおなごです。その着物は大輪の花が描かれた反物で縫われており、おなごの白い肌にさらに花を添えるのでした。 「今年もお会いできましたね」  言えば、おなごは安心したようにほほえみます。 「今年もお会いできたのですね」 「あなたが来ない夏の夜は、この数百年、一度もありませんでした」 「それを聞いて安心いたしました。わたくしの願いは今も、わたくしを生まれ変わらせ、わたくしをこの橋のふもとのあなた様へと導くようです」 「来年も来てくださいますか」 「ええ、祇園にわたくしの光が灯る頃に。来年のわたくしが無事に翅を得、橋を渡れぬあなた様の元へと飛んで来ることができたのなら」  言い、彼女は橋の隅へと身を寄せ、体を傾かせ、その向こうへと身を投げ出しました。  流々と音を立てて流れる川へと、彼女の体が落ちていきます。彼女の美しい黒髪と白磁の肌と朱の着物が、空を行く蛍の光のように私の眼へ線を残します。  彼女が落ちた先で、ふ、と明かりが灯ったのを見るのは何度目でしょうか。  一匹の蛍は川面からふわりと浮き上がるように橋の上へ戻ってきて、私の周りを数度巡った後、橋の向こうの明かり灯る煌びやかな街へと飛んで行きました。 ----- 20220721
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