Day26. 標本

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Day26. 標本

 部屋の物が増えてきたので、断捨離なるものをしてみることにした。漢字三文字となると格好良く見えるけれど要は部屋掃除である。私の部屋はいわゆる子供部屋で、幼少期から大学卒業までずっと使っていたのだった。今は会社員で実家から離れて暮らしている、この部屋もそろそろ片付けておかなくてはいけない。 「あ、これ懐かしい」  ――とはいえ長年できなかったことが今日突然できるようになるわけはなく、私の手はすっかり掃除よりも掘り出し物探しに熱中していた。 「香り付きの消しゴムだ」  小学生の時に流行った文房具だ。これはメロンの香りがする消しゴムで、色はメロン色、カバーもメロン柄。かなり消しにくくてすぐに使わなくなってしまった、実用性に欠ける思い出の品。  何の気なしにカバーを外す。消しゴムの側面には、マジックペンで小さく書いた黒文字があった。滲んでしまって読めないけれど、これは確か、おまじないだ。書いた名前を見られることなく消しゴムを使い切れたら、その名前の相手と結ばれるという、恋のおまじない。元々消しゴムを使い切ったことがないし、当時は皆こぞって友達の消しゴムカバーを外したがったから、私は家で使うことにしたこの消しゴムに憧れの先輩の名前を書いたのだった。結局使い終わらなかったし先輩とは仲良くすらならなかったけれど。  それでも、懐かしい、青春の思い出だ。 「美知佳(みちか)」  名前を呼ばれて振り返る。部屋の扉手前で、部屋の中を見回し呆れと恐れとドン引きとで顔をしかめる紗世子(さよこ)がいた。 「……ほんっと整頓下手だよね」 「嫌だ、見ないでよ」 「見るなって方が難しいよ。――お義父(とう)さんが川から帰ってきたって。けっこう釣れたみたいだよ」 「ほんと? やった、今日はお母さんお得意の焼き魚だ!」 「食欲旺盛だね、こんな暑いのに」  パタパタとTシャツの胸元を引っ張って扇ぐ紗世子は本当に暑そうだった。ここ二階にはエアコンがない。窓を開けて扇風機をガン回しにするだけだ。 「居間にいなよ。紗世子、暑いの苦手でしょ」 「恋人の実家でのんびり寛ぐほど無神経じゃないから」 「誰も気にしないのに」 「私が気にするの。……それ、消しゴム?」  紗世子の指摘に、私は手のひらに乗せていた緑色のそれを握って隠した。目敏い紗世子は部屋に入ってきて私の手から消しゴムをふんだくった。 「あー! んもう!」 「少し溶けてんじゃん。どうせ何も考えずにプラスチックの上に放置してたんでしょ。……あ、これ知ってる。おまじないだ」 「知ってるなら尚更見ちゃ嫌!」 「いーじゃん。それとも何、今でも恋焦がれてる相手の名前なわけ?」 「それはない!」  喚きながら消しゴムを取り返す。カバーを付け直して、そして机の中に投げるように放り込む。 「でも、取っとく」 「捨てなよ。そうやって物が溜まっていくんじゃん」 「捨てらんないよ」  これは私の心の痕跡だ。心を型取ったものだ。私の一部だったもの、今はもうどこにもないもの、けれど確かにあったもの。  これを捨てたら、あの時の思い出全て忘れてしまう気がする。それは少し、少しだけ――寂しい。 「んじゃ、新しい消しゴム買ってあげる」  紗世子は私を嘲笑うでもなく朗らかに笑った。 「そこに私の名前書いといてよ」 「何それ。んじゃ紗世子も私の名前書いた消しゴム持っててよ」 「時代はパソコンだからなあー消しゴム使いきれないや」 「じゃあちっちゃい消しゴムにして、手紙書こう、手紙。私紗世子に手紙書いてあげる」 「はは、なんか面白そう。早く消しゴム使い切った方が勝ちね」 「乗った!」  夏の子供部屋で笑い合う。階下から父の私達を呼ぶ声が聞こえてきた。 ----- 20220728
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