Day6. 筆

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Day6. 筆

 誰もいなかった。何もなかった。行き着いた先の荒野は荒野でしかなく、彼が孤独であることを強調した。固い地面、色味のない空。それしかない。  けれど彼はというと、朗らかに笑い声を上げるのだった。それはその世界で初めての音で、笑い声は突然の自分の誕生に戸惑った後、空へと向かって一直線に飛んでいった。  笑い声は二度と帰ってこなかった。  彼はひとしきり笑った後、手をすぼめて空へと伸ばし、そうっと左右へ揺り動かした。指先の動きに従って空に白い線が生まれた。彼はそれに「雲」と名付け、いっぱいに広げた両手のひらで雲をどかすように、一方向に大腕を振った。ひゅう、と雲が動く。「風」が生まれたのだった。とん、と彼の拳が空を突く。空が抉れて丸い穴が空いた。その縁をそっとなぞれば、穴はメラメラと燃え始めた。あまりにも熱かったので彼は慌てて両手で穴を少しだけ狭めた。メラメラとした炎は火の粉を飛ばして空に細かな穴を作ったものの、やがて一つの穏やかな火に収まった。「太陽」と彼はその穴の名を呼び、空の端に人差し指を押し付けて小さな穴を空ける。「月」だ。彼は太陽と月とを順にそっと一方向へ押しやり、その二つが空を一方向に動くようにした。すると太陽の位置により空に明暗が生まれることとなった。彼は少し月を動かして、太陽が空にいない間は代わりに月が空にあるようにした。  こうして「昼」と「夜」とが出来上がった。  続いて彼は地面へ指をつけ、スッと上へ離した。その指先に合わせてスッと緑の線が地面から生えた。彼は今度は両手の全ての指を地面へつけ、全ての指先をスッと上へ離した。緑の線が一気に生まれた。彼はそれを「草」と呼び、親指と人差し指とで作った円をその先端へつけた。円を埋めるように赤い丸が生じた。彼が閉じた手のひらをパッと開けば、赤い丸もパッと開いた。  彼はそれを「花」と呼んだ。  花はしばらくして「水」を求めた。彼は雲を呼び寄せ太陽と月とも相談したところ、海なるものを作れば良いことがわかったので、荒野の先に立ち両手を左右へめいっぱい動かした。地面がざぶんざぶんと揺れた。ぶつかり合った地面は青色を生じた。「海」ができたのだった。ちなみに太陽が海の色を大層気に入ったので、彼は空の隅から隅までを海を掬った手のひらで撫でつけ、空を青色にしてやった。  こうして「雨」が降るようになり、花は「種」を作って自らを荒野に増やすこととした。その後は彼の手が何をするまでもなく荒野に様々なものが生まれた。彼は名を与えるだけの存在となったけれど、皆は彼を慕い続けた。  皆に「神」と呼ばれるようになった彼は今も、自らの手のひらから描き生まれた世界を眺めている。 ----- 20220706
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