Day8. さらさら

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Day8. さらさら

頬過ぎて 花()り山()ゆ 夏の風 いつかこの手に 触れるべきかな  その家には幽霊がいるというので、僕達の間では今時期になると「山越のボロ屋」という名称は祭並みに心地良い単語だった。夜、こっそりその家へ立ち入り、肝試しをするのである。無論許されることではないのだが、大人に怒られないよう隠れ隠れ行うのも楽しみの一つなのだった。  山越さんちには普段、人はいない。けれど時折人の姿を見かけることがある。かなり年老いたおばあさんだ。どうやらそのおばあさんは普段山の麓の親戚の家に世話になっていて、時々自分の家に戻ってきているらしい。とはいえその頻度は高くない。しかし定期的でもない。だから、大人達のみならずおばあさんにも見つからないよう肝試しを行うのが、僕達の密かな夏の楽しみだったのだ。  そして、僕はおばあさんに会ってしまった。 「……あ」  庭先から家の中へと入れそうな縁側があったから、少し興味が出て中を覗いてみたのだった。するとちょうどおばあさんが縁側へと出てくるところだった。夜だというのにこの人は寝ないのだろうか――そんなことをのんびりと考えたほどには、あまり驚きはしなかった。  おばあさんはにっこり笑って口元に人差し指を置いた。その手には菊の形をした砂糖菓子が乗った盆があった。僕は口を引き結んで頷いた。共に肝試しに来ていた友達にはバレてはいけない気がした。  おばあさんは縁側へ座り、菓子を僕へと差し出してきた。僕は首を横に振った。おばあさんはさらににっこりと笑って盆の上へ菓子を戻した。 「会いに来てくれるはずなんだよ」  見た目に合う、しわがれた声だった。 「道に迷っているのかねえ。待ち続けて何年になることやら。この家ももうもたないし、いっそ私が会いに行こうかね」  僕は頷いた。その方が良いと思うと頷いた。  おばあさんは寂しそうに目を細めて、それから「ありがとう」とまたにっこり笑った。  次の日、僕は山の麓の町へ行った。 「いらっしゃい」  おじさん達は嬉しそうに出迎えてくれた。そして、菊の砂糖菓子と白菊を持った僕に驚いてから、「枯れないうちに行こうかね」と線香を持ってきてくれた。  家の裏に小さな寺があり、その一角に僕の先祖の墓があった。山越家之墓、と刻まれた墓石に線香を立て、銀色の花立てに白菊を入れる。 「ユリさんには会ったことないはずなのにねえ」  両手を合わせる僕の後ろで、母は毎年不思議そうに首を傾げるのだった。 「あの子にとっては曽祖母の姉なわけだし。……あの家もそろそろ立て壊さなきゃね」  山越ユリさんは大戦で新婚の夫を失った後、ずっと一人で山奥の家に住んでいたらしい。親戚の家の仏壇には若い軍人さんと老いたユリさんの写真が並んで置かれていて、その間には古びた葉書と小さな色紙が置かれている。 頬過ぎて 花()り山()ゆ 夏の風 いつかこの手に 触れるべきかな 花置いて 海を越えゆく 夏風に 乾くことなし 縫いたての服 ----- 20220708
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