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黒いコイのように
青年が目覚めると、変わらぬ景色がそこにはあった。
池にはいくつもの波紋があり、葉は雨音を立てている。体も人間の男だ。
でも、なんだか池の様子が違って見えた。
雨が勢いを増したせいだろうか。
ところ狭しと波紋におおわれた池は、点描画のようで、モネの絵のなかにいるような不思議な感覚にとらわれた。
……この瞬間を描きたい!
強い想いが湧き上がった。
それは、いままでの気持ちとは違う。巧く描きたいとかではない。
ただ描きたい。
感動が神経を通って指先へと伝わり、絵筆を動かした。
画用紙に色が広がっていく間は無心だった。
無心で面白かった。
黒いコイのように、そのときを精一杯楽しんでいる感じだった。
完成した風景画を前に、彼は落胆も喜びもない。
思いきり楽しんだことで満足していて、できばえはどうでもよくなっていたのである。
とりあえず題名は「黒いコイのように」とでもしようかと考えて、波紋と遊ぶコイがまぶたの裏にちらつき、くすりと頬が上がった。
その後。
「黒いコイのように」という作品は意外にも称賛された。池から雨音がするようだとか、湿気た森の香りがしてくるだとか。
しかし。
彼は苦笑いを浮かべるばかりだった。
思わぬ評価にとまどったわけでわない。
あのときの池に落ちる雨からは音がしなかったのだと白状すべきか、池の雨音を褒められるたびに迷うのであった。
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