ああ雨

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ああ雨

池が揺れた。 落ちてきた(しずく)が、幾重にも弧を描いていって、池を揺らした。 スケッチブックに向かっていた青年は舌打ちをした。 森林の青青とした姿を映していた池の鏡がなくなる。 この池が鏡となるのは、風のない曇った朝に限られている。 その美しい一瞬を絵にしようと、絵筆を動かしていたのだ。 雲は薄かった。 だから、雨が降ることはないだろうと思っていた。 いまだって、空を流れるのは綿菓子が重なっているような雲で、太陽が透けて見える。 それなのに。 次から次に雨粒は落ちてきて、波紋が増えていく。 池に音を立てないほど静かに、水玉模様を作っては消え作っていく。 静かな雨はこんもりと重なった葉によって下へ滴るのを防がれていた。木にもたれ座る青年の頭やスケッチブックには一滴たりとも当たらない。 葉が雨を弾く音がただパラパラと聞こえるのみ。 ……また鏡になるまで待ってみようか。 彼はスケッチブックを閉じて、池をじっと見つめだした。 波紋は生みだされ続ける。 鳥が細く長く鳴いた。 茂みが微かに動く音がした。 どこからかすっと甘い香りがきた。 傘をさした老夫婦がのんびりと散歩していった。 ……脳裏にある景色に頼って鏡池の絵を完成させようか。 なかなか止まない雨に、スケッチブックを開く。 ……やっぱりだめだ。 閉じる。 記憶したものを描くことはできる。けれども、彼には(こだわ)りがある。目の前の映像を収めたいと。 その瞬間にしか味わえない感覚、空気感がある。それを紙に詰めこみたいという信念があった。 といっても、それは難しい(わざ)であり、彼は作品を完成させるたびに落胆していた。 どうしても自分が描く絵は絵でしかなく、匂いや音や湿度などが漂ってこないのだ。 ならば。絶景という力を借りればなにか変化が起きるかもと考えたのだが、この雨である。 彼は祈るように再び池へ視線を送った。 すると。 魚が一匹飛びはねた。 コイだろうか。黒黒と肥えた塊は、雨よりも大きな波紋を音を発生させて潜っていった。 ……もしかして。雨が降らなくても、鏡は壊れていたのか。 雨に苛立つ自分が馬鹿らしく思えてきて、彼は力なく笑った。 それからは気が抜けて、池を凝視していた眼はしだいに閉じ、うつらうつらとしだした。
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