52人が本棚に入れています
本棚に追加
納見の語る「出雲から聞いた話」
ロールシャッハなんかで何が分かるんだって気持ちでいたのだ。
そんなものただの心理ゲームみたいなものだと思うし、私は占いにハマるタイプでもない。それより何より、担当の心理士を見てびっくりした。
それは丸刈りで黒縁メガネのダサダサなあんちゃん! ぬぼっとして覇気がないし、検査の方法を説明するその口調も、たどたどしくて頼りない。
だから、もしかしたら臨床心理士って資格は簡単に取れるのかなと思った。「三ヶ月の通信教育でOK、試験も○×式」なんて具合に。あとで調べたら大学院卒業が条件だというので驚いた。
勤め先の病院には月に一度、職員向けのメンタルヘルス外来が設けられていたが、勤め先で受診するのは憚られたため、私は別のクリニックを受診した。検査の結果が出るまで二週間かかるそうだ。せっかく午前休を取って受診したのに、なんだか消化不良だった。
「二番の番号札の方」
会計のとき、受付の女性の声を聞いて、電話で予約した時と同じ人だと気付いた。とても丁寧な対応で印象が良かった。
「出雲亜美さんですね」
「はい。あの、会計の前に、病名を聞いてもいいですか?」
私は財布を出してからそう聞いた。
「検査の結果はこれからですし、事務の私からは診療内容については何ともお答え出来かねますが……」
「レセプトには、とりあえず病名つけますよね」
私が言うと彼女は一瞬動きが止まった。
「自分がどんな病気なのかってことじゃなくて、うちの保険組合にどんな病名で伝わるかが知りたいの」
「なるほど、分かりました」
聡明な女性だと思った。それともメンタルクリニックではよくあることなのだろうか。勤め先は2007年に県立病院から経営を委譲された民間の医療法人で、全国に系列病院を有しており、保険組合も備えている。そのため、同じ職場に保険組合支部の担当者がいるのだ。
病名次第では自費で払おうかとも思ったが、これからの通院を考えたら金銭的にちょっと難しいかもしれない。
「あとね、あのお兄ちゃん、評判いい?」
「先生ですか?……じゃないですね、心理士のほうですね。とても優しいですよ。何か問題ありましたか?」
「いえそんなこと。確かに優しくてよかったです。先生も素敵ですね、いい病院でした」
「ありがとうございます。ちょっと別室でお話ししますね」
それから最初にカウンセリングを受けた部屋で、病名の説明を受けた。看護師も同席した。抑うつ状態と全般性不安障害ということだった。
「薬局でも説明があると思いますが、お薬は、副作用がひどかったらすぐに相談に来てくださいね」
看護師も落ち着いた雰囲気で感じが良かった。それにとても可愛い人だった。同性であることを忘れて見とれていたら、結婚指輪をしているのに気がついた。
「保険、使いますか?」
部屋を出ると、受付の女性は聞いた。
「使います。ところで、あの病名は便宜的なものですか?」
言ってすぐに後悔した。どうしてこういう物言いしかできないのだろう。
病院は診療費の七割分を保険者に請求する時、レセプトと呼ばれる請求書を、まず審査機関に送る。そこでの審査で、薬や検査が不要なものと見なされると、最終的な入金額から差っ引かれる。だから病名と診療内容の組み合わせは、とても重要なのだ。それは納見から教えてもらった知識だった。
「あ、それと……精神科療法って初診だと500点も取るんですね」
「お詳しいみたいですけど、決して儲からないんですよ、ここだけの話」
そういって少し笑った。意外とあっけらかんとした性格なのかもしれない。だけど儲からないわけがないと思った。
私は調剤薬局で眠剤と抗不安剤をもらい、駐車場に向かった。
午後からの出勤だった。
職員用の駐車場に愛車の水色パッソを停めてドアを開けると、冷たい空気に晒された。それでも正面入り口まではわずかな距離なので、コートは車内にかけておくことにしている。
駐車場内をふらふらと歩く男がいる。彼も私を見つけ近づいてきた。
「あれ、出雲、午後から?」
納見慧一だった。長身のひょろりとした体は、どこにいても目立つ。濃紺のスーツに、ネクタイは深緑と黒のストライプ。気に入っているのか、よく見る組み合わせだった。
「うん、でも半日休みなんて取るもんじゃないね、もったいない使い方したよ」
「朝ゆっくり寝てられるじゃん」
眠れないから精神科にかかったのだ。
「まぁね」
並んで歩いて職場に向かった。時計を見ると12時20分だった。この時刻は、後々とても重要になる。
彼は待合室の横の自動販売機でコーヒーを二本買い、一本を手渡してくれた。
「ども、ありがと」
「ブラックは苦手だったよな」
「うん、甘いのが好き」
二人は隣に置かれたソファに腰掛け、コーヒーを飲んだ。それから納見は、自分のワイシャツの胸ポケットに付けた職員証を外し、まじまじと見つめた。
「俺ら、事務長からなんて呼ばれてるか知ってる?」
「何よ急に」
「入社当時かららしい、『出納コンビ』だって」
「水筒?」
私はすぐに遠足を連想した。子どもっぽいという意味だろうか。
「名前の頭文字だな。配属もそれで決めたんじゃないかって篠田さんが言ってた」
彼は笑った。そこでようやく文字が判った。私は物品調達係で支払い担当、納見は医事係で収入担当である。
「配属だけならいいけど、まさか採用まで名前が決め手じゃないでしょうね」
「いや、ありえるよ」
「とんでもない病院だなぁ」
今度は二人で笑った。
総務課は二階、医事課は一階であるため、階段のところで「じゃあね」と別れた。
納見は安座富町中央病院の事務で唯一の同期であり、年齢は彼の方が二つ上で27歳だった。来春でそろって三年目になる。
コンビ名を付けられて、悪い気はしなかった。
事務室の手前で業者が台車を押しているのが見えた。最近よく出入りしている営業マンだった。
「あ、どうも、お世話になります出雲さん。タケミツメディカルの湯沢です」
「こんにちは」
「先生が試用されたいってことだったので、サンプルをお持ちしました。試用についての手順ってありますか?」
タケミツはディーラーではなくメーカーだ。メーカーからの物品直納は稀であるため、彼らは売り込みで来院することのほうが多い。
「薬はあるけど、医療材料についてはないんです。超ルーズでしょ、うちって」
「いや、どこも同じですよ」
「保険適用の医療材料だったら、サンプルっていうシールだけ貼っておいてください、算定したらまずいから」
「分かりました」
私が室内に入ると、彼も台車を置いてついてきた。昼休憩の最中なので、電話交換の女性が一人いるだけだった。
「そういえば湯沢さん、例の腹膜透析の患者、退院しそうですか?」
「先生の話だと、25日に退院予定みたいです。そしたらその時に指導料を算定できます。うちもやっと賃借料を請求できますよ」
「でもなぁ」
患者が在宅で医療機器を使用する場合、月に一回は外来を受診してもらい、医師が使用について指導したり薬を処方したりする。その際に指導管理料と、使用している機器についての加算を算定できるのだが、機器そのものは業者からレンタルする場合が多い。そこで病院はその業者へ賃借料を払う。
「あの見積じゃ高いですよ、機器加算と賃借料の差益は、税込で、ええと、たったの220円ですよ」
私は電卓を叩きながらそう言った。
「でも指導料が取れます」
「それは医師の指導に対する報酬でしょ? 費用対効果を考えるなら、やっぱり機器の加算と賃借料で比較しないと。酸素濃縮器もCPAPも、そうやってますよ」
「じゃあ契約は……」
「もっかい見積り、お願いします」
私はにこりと笑った。湯沢は小さな声で「マジですか」と呟いた。
それから午後の勤務時間が始まるまで、私は時間を持て余したので、各部署からの物品請求書を整理した。
西二階病棟からレターボックスを三個。外来からは、ビニールテープを各色一個ずつ。
栄養管理室から銀製スプーンの中くらいのサイズを十本。こういう曖昧な請求は困る。
薬剤科からコピー機のトナーを二本。
検査科から血液ガス分析装置の廃液カートリッジ。
臨床工学技士から塩を十キロ。医療機器整備に使うようで、たまに請求される。医療系業者ではなく、普通の乾物業者のおっちゃんに発注している。
理学療法室から『曲げ曲げハンドル』を五本。何だそれ。
そのほか、各部署から多種多様な請求があった。私のところへは毎日このような物品請求書が提出される。基本的に医薬品は薬剤科から、医療材料は中央材料室から払出しが為されるが、それ以外の消耗品はすべて総務にまわされる。
最後の一枚を見て思わず吹き出した。納見のハンコがあったのだ。医事課からで、女性の字で『エレガード十本』とある。ストッキングの静電気を抑えるヤツだ。業務委託している医療事務の女性たちに、言われるまま押印したに違いない。こんなもの病院の経費で買えるかと、破り捨てたいところだった。
ふと、今日の自分の服装を確認した。特に定められているわけではないが、普通のジャケットに普通のタイトスカート。委託の女性らは揃いの制服で、ブラウスの上に着ているベストは、黒地にピンクのアシンメトリーチェックが可愛かった。羨ましい。
「出雲さん、おはよう。今日は午後からだったっけ」
同じ総務の影山だった。彼は一年先輩で、何かと世話になっていた。
「そうなんです、仕事溜まってて」
「真面目だね、僕なら一日休むなぁ」
「ちょっと前に休んだばかりだから」
私は先日体調を崩して休んだ。というより、朝起きたら頭も体もまるで働かなくて、休まざるを得なかったのだ。原因がわからなかったので、そのことも今日話してきた。
「そうだったね、まあ無理しないようにね」
影山はまたふらりとどこかへ消えた。
午後の仕事は主に請求物品の発注と見積依頼、納品書の集計などに追われた。それとは別に、次年度契約に向けて品目の選定も急がなければならない。そのために、早急に結論を出すべき懸案事項がある。
プラスチック手袋の切替だった。
主に看護師や検査技師が通常の業務で使用するビニール製の手袋である。この単価が他の病院と比較して高いのではないかという話が持ち上がり、各ディーラーに同等品のカタログと見積を依頼したところ、安価なものがいくつも提示された。たかが手袋だが年間で数十万の削減につながる。次期契約への準備はこれが決まってから始めたかった。
「もしもし、中央病院総務の出雲と申しますが、松井さんはいらっしゃいますか?」
「申し訳ございません、営業に出ておりますので、こちらから折り返させます」
営業は、午前中は社内にいることが多いが、午後はほとんど外回りだ。うちを上得意としている業者はほぼ毎日来ているため、電話するより院内を探したほうが早い場合もある。
すぐに折り返しがあった。業者は皆、私の電話の直通番号を知っていた。
「赤川医療器械の松井です。出雲さんですか?」
「お世話になってます。プラ手の件なんですが」
松井の持ち込んだ手袋は圧倒的に安かった。
「採用決まったんですか?」
「いえ、いまウチで使ってる『ソフトタッチグローブ』が、一気に価格下げてきたんです」
切替を検討しているという話を聞くと、現行品のディーラーは慌ててメーカーと連絡をとったようで、先日二人連れ立って私のところを訪れた。最初は「フィット感」だの「安定供給」だのと言い訳していたが、やがて諦めたように提示した見積書には、赤川が紹介したグローブとほぼ対等な水準の金額が書かれていた。
「だからウチとしては、替えないで済むかもしれません」
「そんな! 今さらそんなのズルいですよっ」
「私たちも悔しいんですよ、じゃあ今までの価格は何だったのって話で」
「そうですよ、そんなメーカーは切ったほうがいいです、今後のために」
「でも替えないに越したことはないんです、今の製品に不満はないわけですから」
「そんなぁ」
年間二百万以上の売上につながる話なので、松井もかなり熱が入っていた。
「もっかい期限切って見積出してもらいます、全社から」
「……仕方ないですね。僕ももう一度交渉してみます」
「お願いします」
私は受話器を置いた。
医薬品はともかく、診療材料については実のところ、ディーラーとメーカーの組み合わせはほとんど決まっているため、品目を指定して見積をもらったところで、どのディーラーが落とすかは見えている。ディーラー間競争には価格を下げる効果はあまりないのだ。しかし、製品の採用を賭けたメーカー間競争はガチンコで、価格も驚くほど下がる。これが二年間で私が学んだ教訓のひとつだった。
このあと、他の業者たちにも同じように連絡を入れた。
17時をまわった頃、私が席を立つと、それまで忙しくパソコンのキーを叩いていた総務課長の野村がこちらを見た。
「出雲さん、体調悪いんじゃないか?」
「え、そう見えますか」
「いや何となく。静かだから」
いつもそんなに騒がしいだろうか。
「早めに帰りなよ。年が明けたらどうせ忙しくなるんだから」
「はぁい」
本当はもう少し終わらせていくつもりだったが、ここは従うことにした。実際寝不足がたたったのか、妙に身体が重い気がする。
「篠田さん、アルフレックスから売掛金の残高確認の依頼が来てたんで、お願いしてもいいですか?」
経理係長の篠田が振り向いた。
「俺の印鑑でいいの?」
「いいみたいですよ、月末までに返送してほしいって」
「はいよー」
篠田にそのハガキを渡すと、私は皆より一足早く、事務室を出た。
駐車場に向かう前に、別棟の一階にある栄養管理室に顔を出した。栄養士一年目の野上ユリと、最近仲が良い。
「室長、お疲れさまです」
「出雲さん、お疲れさま。野上はまだ病棟まわってるわよ」
彼女はすぐに教えてくれた。他部署の人間には優しいが自分の部下には厳しいと、酒の席でユリが愚痴っていたのを思い出した。
「そっかぁ、じゃこれ机に置いておきます。貸してほしいって言ってたDVD」
「うん、伝えとくね」
礼を言い、私はそこを後にした。
別棟の地下には霊安室があり、業者車両専用の地下駐車場に出ると、そのそばに自動販売機と喫煙所がある。私は階段を降り、外に出るドアを開けた。
ふわりと、妙な違和感が全身を包んだ。
原因はわからない。何だか視界が、とっても、黄色いと思った。
「あれ……?」
この時間帯に、喫煙所に誰もいないというのは不思議だった。医師も、看護師も、コメディカルも、事務の人間もいない。ただ一台の車もなかった。
まるで空気そのものが、接着剤か何かでぴたりと固定されているような気がした。
二、三歩だけ、歩いた。
やはり体調が悪いのかもしれない。めまいがする。
光るものが落ちていた。
私はそれを不思議に思わなかった。拾うべきものだと思ったので、近づいた。駐車場の中央まで歩みを進め、手に届く位置にきた。そして、腰をかがめる。
それから、同じ場所で自我を取り戻すまでの。
私には、記憶がなかった。
その場所に、私は立っていた。
コンクリートの無機質な壁面をぼうっと眺めている自分に、少し遅れて気がついた。
慌ててまわりを見回してみたが、相変わらず誰もいないようだった。
相変わらず……?
そして思い出す。私がここに訪れたときのこと。仕事を終え、栄養管理室を訪れ、それからこの場所にきた。なぜ記憶が曖昧なのだろう。どれくらいの時間が経ったのだろう。腕時計に目をやると、針は6時5分を指していた。
「ちょっと記憶が飛んだだけかな……」
意識して独り言を呟いた。ずっと眠れていなかったのだし、きっとこれも体調のせいだと思った。
だが、嫌な予感は消えない。
今度は、ケータイを開いた。
そこにはデジタル表示で、6時5分とあった。AMというのは午前のことだったか、午後のことだったか、度忘れした。日付を確認したが、今日が何日だったかも覚えていなかったから意味がなかった。
空気は冷たいのにじっとりと汗をかいている。私は、建物の中に戻った。
階段を駆け上がると、栄養管理室はもう施錠されており人はいなかった。ユリは病棟から戻ったのだろうか。考えるのを止め、足早に別棟から外来棟に戻った。院内はひっそりとしている。早く正面入口を確認したい。売店にも理容室にも、職員の姿はないようだった。売店の閉店時間は19時のはずだ。理容室は何時だっただろうか。思い出せない。どんどんと鼓動が高鳴っていくのを感じる。
待合ホールのそばの、地域医療連携室を通った。ここにも人はいないようだ。だが彼らは帰りが早いからいなくても不思議はない。そう思おうとした。
「おはようございます、出雲さん」
この言葉を聞き、私の心臓は一度ドクンと大きな音を立てた。振り向くと、ボイラー技士の鶴見の姿があった。
「つ……鶴見さん?」
「どうかしましたか? 今日は早いんですね」
朝なのだ。間違いなく、今、朝を迎えている。私はあの喫煙所で、一夜を過ごしてしまったというのか。
「鶴見さん、今日、何日ですか?」
「えっと、16日ですよ。11月16日」
ケータイの表示と同じだ。
「16……」
「そうです、月曜日」
月曜日。11月16日。思い出した。私が午前休をもらってメンタルクリニックに行った日だ。つまり、今日だ。
今日は、今日なのだ。
「大丈夫ですか? 体調悪そうですが」
「本当に、今日、月曜日ですか? 火曜日ではなく?」
「ええ、間違いないです。私は昨日まで、地元に帰ってましたから。長野なんですよ、私」
「今、本当に朝ですか?」
そう聞くと、鶴見は答えずに不思議そうな表情を浮かべた。
「あ……いえ、いいんです。すみません」
「やだなぁ、まだ寝ぼけてるんじゃないですか?」
彼は冗談めかして言ったが、顔は笑っていなかった。
「あは、そうかもしれません」
私は走り去った。
私は、おかしくなってしまったのか。
すべてが、夢だったのか。
状況が理解できるまでは病院にいてはまずいと思い、とりあえず外に出ようと考えたが、その前に自分のデスクを確認したかったので二階へ上がった。鍵はかかっていなかった。事務当直者がゴミを回収するために開けたのかもしれない。今日の当直は誰だったか、私は覚えていなかった。
そっと事務室に入り、使い慣れたデスクに近づいた。
そこには『お休み頂いてます(午前のみ)』というメモが置かれていた。金曜の帰り際、自分が書いたものだ。
「やっぱり、今日は月曜の朝なんだ……」
今日体験したことのすべてが夢だったという可能性が、少しずつ現実味を帯び始めた。だが、あんな夢を見るだろうか。クリニックで病名の説明を受けて、医療材料業者と価格交渉をして、栄養士の友人の机にDVDを置いて帰る。そんなリアルで地味な夢を?
物音がしたので、私は慌てて部屋を出た。とにかくここにいてはまずいと思った。
駐車場まで走った。
しかし、車はなかった。
また混乱した。どんな事情があるにせよ、私がここにいる以上は、車はあるはずだ。私が一人暮らしをしているアパートは安座富町の外れにあり、職場まで、車で30分はかかる。
動悸はもう治まっていたが、答えは出ないままだった。
とぼとぼと歩いて病院の敷地外に出た。冷たい風が吹いた。だが天気は良かった。近くに『コロラド』という喫茶店があるので、そこへ向かった。確かその店は朝早くから営業していたはずだ。70を過ぎたじいちゃんが、一人で切り盛りしている小さな店だ。
営業は7時からだった。私は開店までの15分程を寒空の下で過ごすことにした。
ふとあることを思い出し、財布を取り出した。
メンタルクリニックの連絡先を書いたメモを見ようと思ったのだ。あの記憶がもしも夢や妄想であるならば、私はもう一度診察を受けねばならない。そしてもしも夢や妄想であるならば、それこそが最も重要な受診理由になるだろう。
財布には、診察券が入っていた。
今日作ってもらったものだ。夢の中で、あの丁寧で聡明な受付のお姉さんから受け取ったのだった。
「勘弁してよ……」
私は泣きそうになった。
開店と同時に店に入ると、店主は不思議そうな顔を向けた。
ホットコーヒーを頼み、それから考えた。手元にある診察券のこと。私は、やはりあのクリニックで診察を受けたのだ。しかしそれがいつのことになるのかが分からない。
誰かに聞いてみるしかないと思った。
そして、この時間でもかけてよさそうな相手を考えた。一番に思い浮かんだのは、やはり納見だった。ケータイを開き、彼を呼び出す。
「もしもし」
彼はすぐに出た。混線しているような、妙な雑音が聞こえた。そろそろ機種を換えなければならない時期だろうか。
「もしもし、私。ごめんね、朝早く」
「いいよ別に、どうした?」
「あのね、何から聞いていいか迷うんだけど……」
そこで店主が視界に入ったため、無意識のうちに声を小さくしていた。
「今日は、11月16日の月曜日だよね」
「何それ。そうだよ」
「私にさぁ、コーヒー買ってくれたのっていつだっけ。あの待合室のとこで」
そう言うと、彼はそこで少し黙った。
「自販機のコーヒーってこと? 買ってやったんだっけ。いつのことを言ってるのかよく分からないけど……」
「出納コンビって話、したじゃん。篠田さんが言ってたって」
「あ、お前もそれ聞いたのか。何だ、俺から言いたかったのになー」
納見は笑った。
「何言ってるの、あんたから聞いたんでしょ」
「え?」
「教えてくれたじゃない」
「いや、そんな話、俺はしてないよ。俺も昨日聞いたばかりだから」
雑音が入る。
この段階で私は、混乱や困惑をすっかり通り越してしまったのかもしれない。これ以上考えたくもなかった。
「ねぇ納見、今日ちょっとだけ時間とれる? 話したいことがあるの。お昼に、コロラドに来られるかな」
「職場じゃダメなの?」
「うん。私、今日は午前休もらってるから。でも午後もダメなんだ」
「よくわからないけど、いいよ」
「お昼になったら、すぐに来てほしい」
「分かったよ。ちょっと早めに出て、正午には店に着くようにする」
「ありがとう」
まだ切りたくない、と思った。
「朝からホントにごめん。あのね、私、ちょっと精神的に参っちゃってるみたいで」
「え?」
納見の声色が変わった。
「すごくね、眠れなかったり、妙な動悸や汗が止まらなかったり、あと急に頭とか身体が働かなくなったり、そういうことがたまにあるんだ」
「……そうか。いつから?」
「眠れないのはけっこう前、何ヶ月くらいだろう。誰にも言ってないんだけどね」
返事はなかった。返事に困っていると思った。
「今日これから、ちょっとクリニックを受診してくるよ。それで休みもらったの」
「あぁ、分かった」
「お昼、会ってくれる?」
「必ず行くよ」
少しだけ、気持ちが落ち着いた。電話を切ると、店主がコーヒーを持ってきた。
「ごゆっくり」
私は一口飲んでから、深い深いため息をひとつだけ吐いた。
週刊誌を読もうと思ったが、文字の羅列を追いかけても頭に入ってこなかった。窓の外の景色を見ると、幼稚園児を連れた若い母親が過ぎ去って行くのが見えた。そんなふうに時間をつぶしながらふと時計を見ると、もう8時をまわっている。
長時間の滞在になると思ったので、コーヒー一杯だけと言うのは憚られた。食欲はなかったが、とりあえずサンドウィッチを頼んだ。
やがて運ばれてきたものは思ったよりもボリュームがあり、少しげんなりした。しかし食べてみると、バジルが利いていて美味しい。味覚ははっきりしていた。
9時半になったのを見計らい、私は再びケータイを取り出した。
クリニックを予約していた時間である。
納見にはああ言ったが、私はもう受診する気はなかった。今はそれどころではない。だが診察券が手元にある理由を知りたかったので、メモしていた番号を押した。
「もしもし、西口メンタルクリニックです」
例の受付の女性の声がした。やはり優しくて良い声だった。しかしここでも、やはり音声の具合はよくなかった。
「今日、9時半に予約していた出雲です。あの、ちょっと事情があって」
「ご家族の方ですか? 出雲さん、いらしてますよ、ご安心ください」
……え?
「あの、誰が来てるんですか?」
相手は黙り込んだ。私もうまく言葉が出てこなかった。先に口を開いたのは相手だった。
「ご家族の方ではないのですか?」
「あ、いえ、家族というか」
「すみません、お電話ではお答えできかねます。個人情報の関係もありますので」
相手が少し強い口調になったので、私はうまく答えられないまま電話を切った。
いよいよ、本格的に気付き始めている。
理由は分からないが、私は、時間を遡ってしまったということ。
そしてこの時間にいるべき本来の私は、今クリニックで診察を受けている。
怖かった。
11時頃、思い立って一度店を出た。病院まで戻り、建物の中に入ったところで思い留まった。何かを確認したかったのに、何を確認すべきか分からなかったからだ。とても情けない気持ちで、私はコロラドへ戻った。とにかく今は、納見を待つしかない。
12時ちょうどに、納見は来た。一秒でも早く会いたいと思っていたので、思わず涙が出そうになった。
「出雲、大丈夫か」
開口一番、彼はそう言った。走ってきたらしい、息が少し上がっている。向かいの席に座ると、彼はアイスティーを注文した。
「あのね、私自身が、まだ信じられてないことなんだ。でも全部ちゃんと話すから、今日診察を受けてきたことも、それ以外のことも全部。私、ロールシャッハなんてくだらないって思ってて……」
何から話せばいいか分からなかったが、とにかくすべてを話すつもりだった。
最初のコメントを投稿しよう!