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出雲の語る「納見から聞いた話」
目覚まし時計に叩き起こされ、俺はまどろみの中で朝の星座占いを聞いていた。双子座が二位だったので、ちょっと喜んだのを覚えている。身近な異性と発展の可能性ありということだった。
ケータイが鳴ったので、俺は手に取った。
「もしもし、私。ごめんね、朝早く」
出雲亜美からだった。
「いいよ別に、どうした?」
「あのね、何から聞いていいか迷うんだけど。今日は、11月16日の月曜日だよね」
「何それ。そうだよ」
「私にさぁ、コーヒー買ってくれたのっていつだっけ。あの待合室のとこで」
何をワケの分からないことを。
「出納コンビって話、したじゃん。篠田さんが言ってたって」
「あ、お前もそれ聞いたのか」
俺も篠田から聞いたばかりだったので、すぐにぴんときて答えたが、彼女の反応はどうも噛み合わないものだった。
「話したいことがあるの。お昼に、コロラドに来られるかな」
出雲の切実な声は、ただごとではないことを示していた。
「私、ちょっと精神的に参っちゃってるみたいで。すごくね、眠れなかったり、妙な動悸や汗が止まらなかったり、あと急に頭とか身体が働かなくなったり、そういうことがたまにあるんだ」
一瞬、言葉に詰まった。
「いつから?」
「眠れないのはけっこう前、何ヶ月くらいだろう。誰にも言ってないんだけどね。今日これから、ちょっと心療内科を受診してくるよ」
思いもかけぬ告白を受け、俺は戸惑っていた。一人で行くのが心細くて、俺に連絡してきたのだろうか。
「お昼、会ってくれる?」
俺が「必ず行く」と答えると、彼女は「ありがとう」と言った。
その電話のせいか、仕事を始めてもどこか上の空だった。
出雲は今頃、診察を受けているのだろうか。
しかし忙しさに追われていくと、やがて意識から離れた。
午前中はまず、診療報酬請求に対する査定の内容を精査した。今月も検査・薬剤に関する査定は膨大だったが、加えて救急医療管理加算への査定が目立ったので、原因を究明しなければならない。
それから前月分の病名統計と死亡患者の抽出を行い、労働局へ提出する労災意見書の整理を行ったあと、保険証未確認患者リストを更新した。
11時を過ぎた頃から、ちらちらと時計を気にした。
そして50分を回ったのを確認すると、そっと職場を抜け出し、コロラドへと走った。
店に入ると、そこには出雲しかいなかった。静かにコーヒーを飲んでいたが、俺の姿に気付くと安堵したような表情を見せた。やはり、いつもの彼女とは違う。
「出雲、大丈夫か」
俺はそう言葉をかけた。それ以外に浮かばなかったのだ。
「ありがとう、納見……ごめんね」
「うん、それはいいから。話したいことって、メンタルクリニックのことか?」
「それだけじゃないの、いろんなことがあって」
「落ち着いて、ゆっくり話してほしい。ちゃんと聞くからさ」
彼女は大きく頷いた。
「あのね、私自身が、まだ信じられてないことなんだ。でも全部ちゃんと話すから」
それから15分ほど、俺は彼女の不思議な話を聞いた。
話を聞き終わると、しばしの沈黙が生まれた。店主がコーヒーカップを洗う音が聞こえる。いつのまにか、数名の客も入っていた。今は昼飯時なのだと思い出した。
「私は、やっぱり納見に話を聞いてもらいたくて、それでここに呼んじゃったんだ。なんか本当に、ワケのわからないこと話して、ごめんね。私もよくわかってなくて」
出雲はそう弁解した。おかしなことを言っていると、彼女はとても恥じていた。
本当に、彼女はおかしなことを言っていた。
「戸惑うよね」
「いや、そんなことない。話はわかった……というか、わかってないけど、時間を遡ったとか、そういうのは」
「信じられないと思う」
信じられなかった。だが俺には出雲が嘘をついているようには見えなかったし、嘘をつく理由も思いつかない。
「勘違いってこともあるから、ひとつずつ整理して考えてみたほうがいいかもしれないな」
「考えたよ、だけどおかしいんだもん、全部」
「朝、電話で言ってたことはどうだろ。出納コンビって、篠田さんじゃなく俺から聞いたってことだよな。ちょうど、今この時間に」
腕の時計を見ると、12時20分を指していた。出雲の話は、朝の電話のやり取りだけが、俺の記憶と一致する。待合室での話はまったく分からなかった。
「ちょうど、今だと思う。私は午後から出社して、駐車場で納見と会ったの」
「俺は今ここにいるから……もしそれが本当だとすると、出雲は、お前じゃなくもう一人の出雲は、歴史が変わって、俺と会わずにもう二階へ上がってるってことか?」
「どうかな。でも私もまだ信じられないよ、夢じゃないかって思う。すごく怖い」
出雲は悲壮な表情を見せた。俺の知る限り、彼女がこんな顔をするのは初めてだった。
「とりあえず、今、会社へ連絡入れてみるか。そこにお前がいたら、本当にタイムスリップしたってことになる」
その言葉を使うことがちょっと気恥ずかしかったので、周囲に聞こえないように小さな声で言った。
「うん……でも私がいたら怖いな」
「確かめてみる。直通は何番だっけ」
俺はケータイを取り出し、彼女が教えてくれた番号を押した。
ワンコール。ツーコール。
出ない。それからもう何度かのコールを聞いた後、俺は電話を切った。
「誰もいないみたいだな」
「まだ着いてないのかな……そうか。納見と会わなかったことだけじゃなくて、もう、私が体験した過去とは全部が違うんだ。別の行動をとってるのかもしれない。あのとき私、タケミツの湯沢さんと話してから、それから、ええと……」
「待てよ、そんなに先走るな」
「でも、不安なんだもん」
「それはそうだろうけど。そうだ、電話交換の宮島さんなら今の時間帯も席にいるだろうから、代表番号にかけてみるか」
「待って、それはイヤだよ。何て思われるか分からないし、説明できる?」
「そか……。じゃあ、そのタケミツの営業マンに連絡とれないか?」
俺もその男とは面識がある。在宅医療の分野でこれからお世話になりますと挨拶に来たのが先月のことだった。
「あ、業者のアドレス持ってるんだ。ケータイも書いてあったかな。かけてみるね」
出雲が電話をすると、相手はすぐに出たようだった。
「お世話になっております、中央病院の出雲です。ええ、そうなんです。え?」
出雲の顔色が変わった。
「いえ……そうですよね、いえ、さっき用件はお伝えしたので、大丈夫です。すみません」
彼女は電話を切った。
「さっき私と話したって。もう一回見積をお願いされたって」
「お前が今話したことと同じだな」
「私はもう病院にいるんだ」
「だとすると、どうなるんだろう。その出雲亜美は」
「きっと普通に午後仕事をして、終わったら栄養管理室に行くんだと思う。ユリの机にDVDを置いて、喫煙所に出て」
「同じように、過去に戻るのかな」
「多分。そうしたら、私は私一人になる」
俺は決して頭が良いほうではない。サスペンス映画を観ても、大オチの意味が分からずに一人だけ取り残されたりする。結局のところ、どういうことになるんだろう?
「12時間だけ、私が二人いて」
「もう一人が過去に戻ったら、問題は解決?」
「……だね」
「何だそれ。タイムスリップなんて大事件に対して、解決方法が『じっと待つ』かよ」
「あは、よく考えたら何かショボいね」
出雲は笑った。俺も笑ってしまった。
「それじゃ映画やドラマにはならないだろうなぁ。少なくとも30年は遡らなきゃ。きっかけが『何か光るもの』ってのも、地味すぎるし。デロリアンに乗って時速88マイルで疾走するとか、見映えが大事だよ」
「我ながらお恥ずかしい」
俺は軽口を叩き、彼女もそれに乗ってくれた。少しだけほっとした。
「じゃあ、午後はどうする?」
「うん……。私、今日は行かない。もう一人の私がいてもいなくても、なんか仕事なんてできそうにないし」
「そうだな」
出雲はまた暗い表情になった。
「うちに帰るよ。でも車ないんだ」
「それも不思議だな」
「私がクリニックに行くのに使って、きっと今は病院にあるんだと思う」
「そうなのかな……とりあえず送ってってやるよ」
「午後、間に合わないんじゃない?」
「少しくらいかまわないよ。家でゆっくり休んだほうがいいかもしれない」
彼女は少し微笑んで「ありがとう」と言った。
会計だけ済ませて、出雲を残して先に店を出た。病院には確かに、出雲のパッソが停められていた。しかし、俺がコロラドに行ったときからそこにあったのか無かったのか、それが分からない。車で店に戻ると、助手席に出雲を乗せ、俺たちは彼女の家に向かった。
車は大通りを行く。大通りとは名ばかりの、閑散とした田舎の風景だ。道には文房具屋や手打ち蕎麦屋、法律事務所などが立ち並ぶが、需要と供給がちぐはぐのように思えた。もう少し行くとコンビニがあり、道を逸れるとMIZOREというショッピングモールがある。このあたりでは、それが唯一のオアシスだった。ふと見ると、道行く老夫婦はもう冬物のコート着込んでいる。やがて初雪が降り、この町も冬景色を纏うだろう。
「またみんなで雪かきしなきゃなぁ」
隣で押し黙る出雲に、俺はそう言った。
「去年、大変だったね。正面入り口と駐車場だけでも、大作業で」
「職員がやってるなんて、自分でやるまで考えてもみなかったな。当然なんだけどさ」
それからまた沈黙になった。五つ目の交差点を右折する。出雲の家へは一度だけ行ったことがあったので、道は分かっていた。
「あのさ、納見」
出雲の声は少し上ずっているように聞こえた。
「さっき、来てくれてありがとう。嬉しかった」
「何だよ、お前らしくない」
「そうかな。私、ほっとしたんだよ」
遠くには山々が連なっている。雑木林は太陽の光を受けて綺麗に輝いていた。
「あの、私のおじいちゃんがね。去年死んじゃったんだけど」
「うん」
「私が入社したとき、同期は大切にしろって言われた。同期の桜はいいもんだってさ」
「ふうん。俺たちの同期っていうと、看護師はたくさんいるな、それと放射線技師の河合さんか」
「そうだね。でも事務では私たち二人だけでしょ?」
出雲が何を言おうとしているのか分からなかった。それなのに不思議と、俺は緊張していた。彼女もきっと同じだと思った。
「おじいちゃんの言葉を守ることになるのか、逆らうことになるのか、わからないけど。私、何ていうか、納見と一緒で良かったって思ってるんだ」
「うん。俺もそう思ってる」
「あの、こんな時に言っていいか分からないんだけど、その」
俺は彼女の顔が見られなかった。ミラー越しでも、目が合うのが怖い。ドキドキしていた。こんなことしばらく無かった。
「私、仕事だけじゃなくて、それ以外でも納見と、一緒にいたいというか。恋愛とかそういうアレじゃないんだけど、いやそうじゃなくて、そういうアレなんだけど実際その」
「な、何言ってるんだよ」
俺の声も上ずっていた。横断歩道に差し掛かったので、慌ててブレーキを踏んだ。自転車で横切る作業服姿のオヤジを轢きそうになった。
「付き合ってほしい……です」
「あ、あー、それだよなやっぱり。いや、何となくそういう空気っていうか、それにいきなりでびっくりしたけど、でも本当に俺でいいのか? 手近なとこで済ませようとか」
俺は声だけで笑った。
「うん、手近だから」
「なんだよ。本当にそれが理由かよ」
「近くにいてくれるって嬉しいんだ」
またドキっとした。出雲からそんな言葉を聞くとは思ってもいなかった。
「付き合ってくれる?」
「……うん」
俺はそう答えるだけで精一杯だったが、彼女は吹っ切れたようだった。
「良かった、ありがとう。わぁ、めちゃめちゃ緊張したっ。フラれたら車から飛び降りるつもりだったから」
「怖いこと言うなよ」
「でも私、自分のこと、もうちょっとスマートに告白できる女だと思ってた。今の感じ、おじいちゃんの話とか意味わかんないし、ダサすぎる……」
「それは俺も同じだよ。変な汗かいたし」
車内には妙な熱気がこもっている気がした。
「みんなに内緒にしとこうね」
「そうしよう」
出雲の住むアパートが見えた。少し手前で停め、彼女を降ろした。
「納見、ありがとう。午後は完全に遅刻だね」
時間を見ると、12時55分になっていた。
「それより、よく休んでろよ」
「分かってる」
出雲はもう、タイムスリップのことなどどうでも良くなってしまったようだ。にこにこと笑顔を見せた。
彼女の部屋は二階にある。階段の手前で、振り向いて言った。
「私、もしかしたら、みんなから勝ち気でふてぶてしい女って思われてると思うんだ」
「どうしたんだよ急に。そんなことないと思うけど」
実際はそういう印象を持たれていると思った。俺にとっても出雲亜美はそんな人間だった。
「いや、それは別にいいの。間違ってないし」
「うん」
「でもすごく自分に自信なくて、びくびく怯えてるときもあるんだ。何にかは分からないけど、すごく不安になることがあるの」
「そうか……」
「納見が、それを分かっていてくれたら嬉しい。私も納見のことちゃんと見てるから」
さっきまでとは違い、とても凛として真っ直ぐな声だった。俺はやっと彼女の表情を正面から見据えることができた。とても可愛い人だと思った。
「後で、連絡するよ」
「うん。待ってる」
俺は職場に戻るため、今来た道を時速88マイルで疾走した。
病院に着いたのは、一時半を回った頃だった。
医事課長に適当な理由を話し、俺は自分の席に戻った。医療事務室は会計窓口の内側にあり、患者からも見える位置になるため、あまり落ち着く場所ではなかった。
「納見さん、志田部長が連絡ほしいっておっしゃってましたよ」
声をかけてきたのは、非常勤職員の木内だった。納見より年下の彼は、医事業務や地域連携業務の補佐をしてくれているが、納見よりもずっと博識だった。
「志田先生が?」
「軟膏処置の件だって」
思い出した。算定漏れがあるのではないかと言われていた件だ。
志田とはこの病院の外科医長であり、同時に病棟部長でもあった。先月のレセプト点検のときに、ある入院患者について「軟膏処置が算定されていない」と問い合わせがあった。病棟の看護師は確かに軟膏を塗ってあげていたそうだ。
「でも納見さん、医事にはそれが伝わってこないんですよ」
木内はそう言った。処置用の伝票に記載がなければ、医事では分からない。オーダリングシステムの導入されてないうちの病院では、検査や処方に関してもすべて同じ状況だった。
「実際、算定できるんだよね」
「病名にもよります。ただの湿疹じゃダメだし……」
「そっか。今回の件は、看護師が書き忘れてるだけかな」
「いえ、患者さん個人に軟膏を処方してる場合は、処置としては算定しないほうが正しいですから。処方しないで塗った場合ですね、病棟保管の軟膏壺なんかがあったとして」
「なるほど。そうすると点数も違って来るんだ」
木内は頷いた。
俺は志田部長のPHSに連絡を入れた。彼はすでに内容を知っていたようだった。
「今後の方針は追々として、納見さんは算定出来たはずの件数をカウントしてください。直近三ヶ月分くらいかな」
「分かりました」
即答した。面倒な仕事が増えてしまった。
時間を見て、二階へ上がろうと思っていた。
俺は、タイムスリップの話をまるで信じてはいなかった。
彼女がまだ診察を受けていないはずのクリニックの診察券を持っていたという話も、今日はまだ会ってもいないタケミツの営業マンと価格交渉がすでに為されていたという話も、結局のところ彼女からの伝聞でしかないのだ。理由は分からないが、彼女は嘘か冗談を言っているのではないかと思った。
出雲とコロラドで落ち合ったときの悲壮な表情だけを見ていたら、それでも信じていたかもしれない。
だが告白を受け、付き合っていこうという話になった頃から、これは全部冗談なのではないかと思うようになっていた。しかし一方で、そんな冗談を言う人間ではないとも思っている。だからとりあえず確かめに行きたかった。
医事課を出て、階段を上ろうとした。
「納見くん」
呼び止めたのは、栄養管理室長の平田だった。
「お疲れさま。今、忙しい? 相談があるんだけど、うちでちょっと話せるかな」
栄養管理室は別棟にある。何でわざわざと思ったが、取りあえず付いていくことにした。それから15分ほど、彼女の「提案」を聞く羽目になった。
「うちの病院では、例えばメインのメニューが魚だったら、肉の料理も選択可能って案内してるのね。これは患者サービスの一環でやってるだけ……と私たちも思ってたんだけど」
「はぁ」
「実は自費請求できるのよ。患者さんが承知で選択した場合は、追加請求できるんだって」
耳には入ってくるが、俺は気が気じゃなかった。
「他の病院に聞いたら、外からお寿司を出前で取って、それを二千円で出してるとこもあるらしくて。やり方次第で利益を出せると思うの」
「今までやってなかったのは……」
「それはまあ、ウチと医事の両方の問題だわね」
病院幹部が知るとややこしい話になりそうなので、あまり公にしたくないようだった。
「僕もちょっと調べてみます。後でまた連絡します」
俺は栄養管理室を後にした。
それから何度も、出雲の様子を確認しにいこうとした。
だがそれはできなかった。栄養管理室を出たあとも、外来看護師長から外来化学療法の施設基準のことを問われ、ソーシャルワーカーから退院調整加算の解釈について聞かれ、分からないことだらけでひたすら謝った。歩くたびに仕事が増え、何から手をつけていいか分からなくなっていた。
そうしているうちに、いつの間にか5時を回っていた。
俺は慌てて席を立ち、二階へ向かった。事務室には野村や篠田の姿はあったが、出雲はいなかった。
「お疲れさまです。出雲、今日休みでしたっけ」
「いや、午後から来てたよ。もう帰ったけど。体調悪いみたいだったからね」
同じ総務課の影山が教えてくれた。その答えは意外だったが、俺が病院に戻った後に、彼女も出社して来たのかもしれないと思った。
「出雲、午後は何時頃に来ました?」
「ええと、何時だったかな。そうだ、一時ちょっと前に電話があったんだ。タケミツの営業に会ったから、一緒に前川先生のとこに行ってくるって」
前川とは腎臓内科の医師だ。腹膜透析の患者の件で、タケミツの湯沢とともに何事か相談しに行ったのだろうか。出雲本人から聞いた話とは違った。
「腎内は、今日は外来診察日でしたよね」
「そうだっけ。じゃあ外来に行ったんじゃないかな。その後すぐ帰って来たよ」
「何時頃? 電話は内線ですか?」
影山は眉をひそめた。
「納見くん、ストーカー?」
「ち、違いますよ。ちょっと気になって」
「内線だったと思う。ここに来たのは確か13時半頃だよ」
13時半。ぎりぎり辻褄が合うと思った。しかしやはり、そんな嘘は意味がないとも思う。俺が前川や湯沢にそのことを聞けば、簡単にバレてしまうのだ。
釈然としない気持ちで、俺は別棟に向かった。
ついさっき訪れた栄養管理室には、室長がいるようだった。出雲の姿はなかったので、素通りした。それから地下へ下り、喫煙所へ向かう。彼女はきっとそこにいると思った。
喫煙所へ出る扉を開ける人物の姿が目に入った。
すぐに出雲亜美だと分かった。
「出雲」
外に出ようとしている彼女に、俺は声をかけた。彼女は振り向き、俺を見て微笑んだ。やっぱり冗談を言っていたんだと、俺は思った。長くてつまらない冗談を。
「納見、お疲れさま」
「お疲れさま、出雲」
俺たちはそろって喫煙所に行き、ベンチに腰掛けた。
「今日は誰もいないね、不思議」
「そうだな、これだけはお前の言ったとおりだ」
そう言って笑うと、彼女はきょとんとした顔でこちらを見た。
「私、何か言ったっけ」
「いや、人がいなくて妙だったって言ってたろ。予想が当たったなと思ってさ」
答えはなかった。
「ところで、話したいことがたくさんあるんだ」
「どうしたの。なんか変だよ」
変なのはお前だろうと、思わず言いそうになった。
「今は体調、大丈夫か?」
「あ……うん。大丈夫だよ。課長にも言われたけど、そんなに具合悪そうに見える?」
「寝不足なんだろ?」
今日の午後はどうだったのだろうと心配になった。俺の知らないところで彼女は一人、仕事を抱え、悩み、不安になっていたのだと思うと、胸が締め付けられた。納見に分かっていてもらえたら嬉しい、という言葉が、耳に焼き付いて離れない。
「よく分かるね。クマがひどいかな」
「いや、そんなことない。よく分かるねっていうか、お前がさっき」
そこで言葉を止めた。イヤな予感がした。
「実は私、最近ね」
出雲のほうが先に、意を決したように言葉を発した。
不眠のこと。動悸のこと。頭や身体や働かないときがあること。すべて一度聞いた話だった。なぜ同じ話をするのだろう。
「今朝、メンタルクリニックを受診したんだ」
彼女はまだ冗談を続けるつもりなのだろうか。
「今日の昼、コロラドで、俺に話してくれたよな。その話」
「え……何言ってるの? 今日ここで初めて会ったのに。私コロラドなんか行ってないよ」
頭がおかしくなりそうだ。
「お前、演じてるのか? 過去に戻る前という設定の、出雲亜美を」
「さっきから何を言ってるの!?」
出雲が大声を出したとき、俺は本当に言葉を失っていた。
なぜこんな嘘を続けるのだろう。それとも、タイムスリップの話が本当だとでも言うのか。何よりも俺は、あの告白がなかったことになるのがイヤだった。
「私、今、すごく大事なことを話そうとしてたの。納見に聞いてもらいたかったのに、どうしてさっきから変なことばかり言うのよ」
彼女は悲しそうな顔をした。これも芝居かと考えた。だが彼女にだって、そんな余裕はないはずだ。俺は何から説明すべきなのだろう。
朝早く、出雲から電話を受けたこと。
午前休を使ってメンタルクリニックに行くと教えてくれたこと。
昼休み、コロラドで会ったこと。彼女自身が話した荒唐無稽な体験談。
だけどそれよりも前に、言わなければならないことがあると思った。
「出雲、ちゃんと言ってなかったけど、俺はお前のことが好きだったんだ。ずっと前から、多分入社式で初めて会ったときから」
「ど、どうしたの急に。やっぱ変だよ、今日の納見」
彼女が顔を赤くしてそう答えたので、俺は少しだけ安心した。今日あったことをすべて話したら、彼女は「冗談でした」と笑って種明かしをしてくれるかもしれない。
出雲に、俺はちゃんと話そうと決めた。
「最初は今朝なんだ。朝っぱらからケータイが鳴って、確かテレビで星座占いをやってる時間帯だったと思う、双子座は身近な異性と発展の可能性ありって言われて、それで」
わずかな期待を胸に、俺は話を始めた。
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