エピローグ

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エピローグ

 出雲の話を聞き終え、篠田はすぐに言葉が見つからなかった。聞きたいことはたくさんあったのに、二人の表情を見比べるばかりだった。 「種明かしって言われてもね。私には何のことだか」  出雲は鼻で笑った。出雲は、自分が車の中で告白する部分については、特に不快そうに話した。 「何で私が告白したことになってるのよ。あんたが言ってくれたんじゃん」 「俺が喫煙所で、そう言ったのは事実です。篠田さんだから話すけど」 「お前ら、付き合ってるのか?」  取りあえず最初にそれを聞くと、二人はそろって恥ずかしそうな表情を見せた。 「それは、そうなんです。今日はその報告も兼ねてて。いや報告ってほどのことじゃないけど、私は篠田さんと席も近いし」 「席は関係ないけど……まあ良かったよ、お似合いだと思う。妙な馴れ初めだけどな」  篠田が笑って言うと、納見も出雲も微笑んだ。  しかし。  話の真相は見えない。一体どういうことなのか。お互いに、相手が嘘をついていると思っている。それもとても無益な嘘だ。 「二人とも、嘘なんかつく必要ないよな」  まずそれを確認しようと思った。 「俺にはないです、こんなややこしい嘘」 「私だってそうです」 「だけど、もし二人ともが本当のことを言っているんだとしたら」  実は辻褄が合うことを理解していた。ただしその場合、タイムスリップなどという現象を認めなければならなくなる。 「私たちだって、ただ嘘つき呼ばわりし合うだけじゃなく、そういう話もしました。でもそんなことあるのかなって思う。私、超常現象とかまったく信じないわけじゃないけど、いくらなんでも……」 「出雲は、普通に日常生活を送ってただけだもんな」  篠田は頭の中を整理した。もしもすべて現実だとしたら、これからタイムスリップするはずだった出雲に納見が声をかけて、歴史を変えてしまったことになる。 「でも、もしそうだとすると、俺がコロラドで会った出雲は、どこへ行ったんでしょう」 「過去に戻ることがなくなったんだから、消えてしまったか、あるいは消えずに今もこの町をうろついているのか」 「怖いこと言わないでください」  出雲はもう一人の自分が町を彷徨う光景を想像してしまったようだ。ドッペルゲンガーと呼ばれる別の超常現象にも似ている。 「でもそれこそ信じられない。そもそも、その『光るもの』って何なんだ?」  篠田は考える。なぜ喫煙所で、そんなワケのわからないことが起きたのだろう。いや起きたかどうかを今考えているのだ。では起きていないのか。わからない。  篠田は頭を抱えた。  ほどなくして、出雲の押し殺したような笑い声が聞こえた。 「……篠田さん、やっぱりいい人だ。面白いです」  彼女を見ると、先ほどとは打って変わって笑顔になっていた。 「何だって?」 「もう困らせたくないし、納見、いいよね?」  出雲が納見のほうを向いてそう聞くと、彼は目を伏せたように見えた。 「全部、嘘なんです。これ」 「え?」 「あ、いや全部じゃなくて、その。私たちが付き合うことになったのは本当です、あの喫煙所で、納見が言ってくれた」 「そうです」  納見はそれだけ答えた。 「それ以外は冗談ってことか? わざわざこんな長い話をして」 「あは、怒らないでください。付き合ってますっていう報告だけじゃつまらないねって、二人で話して」 「しかし、騙してたなんて。本当かよ」 「可愛いでしょ。こんな部下」  出雲はおどけて見せた。 「どちらかじゃなく、二人とも嘘をついてたわけだ」 「あ、でも実は、私は何も(、、、、)ウソは(、、、)ついてない(、、、、、)んですよ。あの日午前休を取ったのも、クリニックを受診したのも、午後仕事して、終わってから喫煙所に行って、そこで納見にさっきの話をされて。告白してからすぐですよ、あんな作り話、本当に空気読めない人だなって思うけど」  これほど楽しそうに話す出雲を、篠田は見たことがなかった。 「俺を騙そうって話も出雲から?」 「そうです。出雲の話したとおり、あの喫煙所で俺がさっきの話をして、出雲は最初きょとんとしてたけど……じゃあその話を篠田さんにしてみよう、きっと騙されるよって出雲が言うから。いや、俺も同意したのは確かですが」  出雲に比べ、納見はそれほど笑顔ではなかった。からかったことを後悔しているのだろうか。 「じゃあ俺が見た出雲は、前川先生のところに会いに行くところだったのかぁ」  篠田はあの日、出雲の姿を見かけた。 「あれ、見られてたんですか。そうなんです、私、外でばったりタケミツの湯沢さんと会っちゃって。何かサンプルを先生に持ってきたところらしくて、じゃあ私も一緒に行くって話になったんですよ。腹膜透析の患者の件もあったし、一度ちゃんと話しておきたくて」 「外来中なのに随分長く話してたんだな。戻ったの13時半だろ?」 「はい、いやでも話したのは30分くらいですよ。先生も午後には診察終わってたし」  篠田は背中にじっとりと汗をかいていた。  何かが(、、、)おかしい(、、、、)。  納見を見ると、彼も緊張した顔で一点を見つめていた。とても種明かしをしているときの顔ではないように思えた。 「俺がお前を見かけたのは」  篠田は思い出す。遠い過去の記憶ではない。あの日、確かに出雲亜美を見かけた。 「篠田さん」  納見が止めた。 「もういいじゃないですか、笑い話で」 「どうしたのよ、二人とも」  出雲も神妙な顔をした。 「俺はお前を、11時に見かけたんだ。はっきり覚えてる、あの日は税理士と会っていたからな。税理士を迎えにいって、応接室まで案内しようとしていた、その途中だ。タケミツの営業マンのことは分からないけど、お前の姿を見た。だけど、その時間、お前はまだ」 「私……まだクリニックにいた」  出雲の力ない言葉を聞きながら、納見は険しい表情になった。彼は知っていたのだ、最初から種なんかないことを。 「コロラドからであれば」  篠田はそこで言葉を止めた。納見の言う通り、笑い話で終わってもいいと思った。だが出雲は明らかに動揺している。そして助けを求めるように納見を見た。  彼は、観念したように口を開いた。 「出雲、お前は、何も嘘はついてないと言ったけど……」 「うん」 「本当は、俺も(、、)ウソなんか(、、、、、)ついてない(、、、、、)んだ」  篠田は背筋が凍りつくのを感じた。  もうすぐ、昼休憩の時間が終わる。  三人は静かに食堂を出た。  二人と別れると、出雲は二階に戻った。  窓の外を見ると、雪が降り始めていた。  見なれた景色が広がっている。職員駐車場があり、駐輪場があり、植え込みにはヤマツツジが並んでいた。そのすべてが、あっという間に雪景色になるだろう。そうしたら、明日の朝は雪かきをしなければならない。去年まではただの同僚だった納見慧一が、今年は特別な人になっている。  心強さの半面、妙な喪失感があった。もしもいつか、この恋がうまくいかなくなってしまったら。  それでも、納見がいてくれて良かったと思う。  絶望的な不安の底に滑り落ちて行く怖さ。頭や身体が動かないことへの苛立ちと悔しさ。意地も見栄もプライドも、綯い交ぜになって自分を苛む。ただの同僚ではなく、特別な存在でいてほしい時があった。泣きたい夜に、一緒にいてくれる人が自分にはいるのだ。  だけど、それは本当は、自分のものではなかった。  今、出雲は密かに願う。それはおそらく、最も願ってはならないことだった。だが、怖くて怖くて仕方なかったのだ。納見から最初に聞いた話が、嘘ではなかったと分かったからではない。ずっと引っかかっていた謎が、氷解したからだ。  納見から告白を受け、彼が特別な存在になった、あの日。篠田を騙すための打ち合わせをし、いつ報告するかを決めたあとは、二人のこれからのことについて、たくさん話した。くだらないことも大切なことも、現実的なことも夢見がちなことも。その間に、納見は一度だけハグをしてくれて、出雲も彼の背中に腕をまわした。やがて別れて自宅へ戻ったあとも、鼓動は静まらないままだった。  今日は眠れそうにないと悟ったのは、23時をまわった頃。  ちょうどそのとき、出雲のケータイが鳴った。野上ユリからだった。彼女は早口で、いくつもの質問を出雲にぶつけた。 「さっきは名前言ってくれなかったけど、亜美ちゃんなんでしょ?」 「あんなに泣いてたら、誰だって心配するよ。大丈夫なの?」 「ケータイが使えないって、今は話せてるじゃん。どうして公衆電話からかけてきたの?」 「今どこにいるの。今まで誰かと一緒だったの?」 「言うだけ言って電話切って。もうっ!」  最後には怒りすらにじませていた。しかし、出雲には彼女の発する言葉のすべてが、意味不明であった。その電話をかけたのは自分ではなかったが、ユリは聞こうとしてくれなかった。  今、出雲は願う。この雪が一晩中降り続き、世界を白く覆い尽くしてくれることを。色を、光を、影を、深く深く沈めてくれることを。  その電話の主は、泣きながらユリにこう言ったそうだ。  私には(、、、)帰る場所が(、、、、、)ないの(、、、)、と。
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