ミツキさんの満ち欠け

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 首から上に頭がない。  ミツキさんの変わり果てた姿を遠目に見ながら、私は身を震わせた。店内の冷房が効きすぎてちょっと寒いからだ。  まだ夏の名残を感じる時期とはいえ、もう少し厚着でもよかったと悔やみつつ、ややこしく入り組んだ本棚の間を抜けてミツキさんの方へ近づく。  市内でも有数の広さと迷路っぽさを備えた書店の一画に、四角く区切られたイベント用のスペースがある。テーブルやイス、音響機材、有名出版社のマスコットキャラのどでかいぬいぐるみ等々が設置されていて、今日この後開催されるトークイベントの準備はほとんど整っているようだった。  イベントの内容は二人の絵本作家による対談で、そのうちの一人はもう会場に来ている。つまりミツキさんだ。イベントスペースの隅っこで横長の四角いスツールに腰かけて、居心地悪そうに縮こまっている。  金銀の意匠が星のようにちりばめられたゴシック風の黒いワンピースは、ミツキさんがよく着ている普段着の一つだ。いつもなら綺麗に丸い球状の頭とよく合う服装だけど、今は頭がないからちょっと画竜点睛を欠く感じがある。  ずらりと並んだイスの脇を抜け、足元で複雑に交錯するケーブルを踏まないよう慎重に歩き、通路にはみ出たぬいぐるみの巨体を紙一重でかわして、ようやく私はミツキさんの傍らにたどり着いた。  うなだれていたミツキさんの上体がゆらりと持ち上がった。フリルの襟に囲まれた首がこちらを向いて、本来なら頭と繋がっているはずの面が視界に入る。人体のプライベートな中身をじろじろ見るのもどうかと思って微妙に目を逸らすと、ミツキさんが「おかしな目つき」と不審げにつぶやいた。 「ずいぶん遅かったじゃない。千由紀(ちゆき)」 「これでも急いで来たんだけど? ミツキさんが不安で泣いてると思って」 「馬鹿を言わないで。どこに涙があるっていうの」 「まあ、確かに、涙は見えない。ていうか顔ぜんぶ見えない」  ふんと鼻を鳴らしてミツキさんは首の向きを変えた。口調はいつもとあまり変わらないけど、声が細くて弱々しい。  来てほしいと連絡を受けたのは、自宅のソファに寝転んで、キツツキがひたすら木の幹をつつく動画をスマホでぼへえと眺めていた時だった。  最初はミツキさんからのメッセージで、「すぐ来て」の四文字だけだった。それから続けざまに、ミツキさんの担当編集をしている、出版社の加瀬さんからもメッセージが届いた。 「先生の頭部が完全消失したのですが、別件のトラブルでフォローの手が足りません。休日中に申し訳ありませんが、今からイベント会場に来ていただけないでしょうか……」  その後ミツキさんからは疾走する陸上選手の写真が、加瀬さんからは涙ながらに懇願する顔の絵文字十連発が送られてきた。  私は二人にできるだけ早く向かう旨の返事と、「シカたありませんね」と眼鏡を光らせる知性派鹿キャラのスタンプを送った。元々イベントには行くつもりだったし、ミツキさんの状態に心配半分、好奇心半分だった。  ミツキさんの頭はちょっと独特の構造をしている。  まず外見が、といっても今は見えないけど、消えていない時の外見が、巷に山ほど溢れかえる頭とは少し雰囲気が違う。平均的な人間の頭より、どちらかというと月に似ているからだ。  ミツキさんの頭は綺麗な曲線の輪郭を描く丸い球体だ。ざらついた固い表面は全体的に灰色で、光の当たり方によっては銀色や金色に輝いて見える。あちこちにクレーターに似た凹凸があって、そのうちのいくつかは目とか口みたいな感覚器官の機能を担っている。  見た目の他にもう一つ、ミツキさんの頭には月っぽい特徴がある。  太陽との位置関係に応じて、地上から見える月の形は変化する。様々な弧線を描きながら新月から満月へ、満月から新月へ向かう、月の満ち欠けだ。そして、仕組みは全然違うけど、ミツキさんの頭にも似たような満ち欠けがある。  ミツキさんの頭の見え方は、ミツキさんの心理状態に応じて変化する。本来の球体、いわば満月の状態を基準として、不安や恐怖、悲しみや腹ぺこといった、負の感情やストレスが強まるにつれて形が欠けていく。欠け方も月に似ていて、前に半月っぽい形の頭や三日月っぽい頭を見たことがある。  月の満ち欠けはあくまで見え方の変化だ。それと同じく、ミツキさんの頭も見えなくなるだけで無くなるわけじゃないから、欠けて消えても生活上の支障はあんまりないらしい。見る側としては均整のとれた頭の丸みを堪能できなくなって困るけど。 「丸ごと消えてるの初めて見たかも」  スツールの空いたスペースに腰を下ろしながら言う。 「こんなの大して珍しくもない。あなたが知らないだけよ。所詮その程度の希薄な関係」 「何クールぶってんの。昨日も浅漬けあげたら喜んでたくせに」 「浅漬け並の浅いつき合いね」  ミツキさんが大仰に肩をすくめる。いつの間にか首の上に少しだけ、薄い灰色の輪郭が満ちていた。  やっぱり私が来て嬉しいんだ。頬が一気に緩んで、「おかしな顔つき」とミツキさんにまた不審がられた。  ミツキさんの頭を新月に向かわせる原因は、イベント登壇への強い緊張や不安だろう。ミツキさんは割と繊細で怖がりなところがあって、人前に立つのも得意じゃない。対談相手が尊敬している作家さんだから引き受けたらしいけど、「人生最大の過ちだった」と昨晩キュウリの浅漬けをかじりながら頭を抱えていた。  こじんまりした賃貸マンションの、隣同士の部屋に私たちは住んでいる。引っ越してきた当初は知らない他人だったけど、生活のリズムやパターンがたまたま似ていて、近所の道端や店でやたらと遭遇するうちに少しずつ交流が生まれ、今では一緒に浅漬けやアサリやアサイーを食べるくらい深いつき合いだ。  加瀬さんはそういう信頼関係を分かっていて、ミツキさんを落ち着かせる役目を私に託したのだろう。共通の知り合いの中で休日いちばん暇そうだったからという可能性もなくはない。  膝に置いたバッグから、薄茶色の紙袋を取り出す。ひんやりした手を取って袋を渡すと、ミツキさんは「気が利くじゃない」と声を弾ませた。  ミツキさんが紙袋に手を入れて、中から薄茶色をした円形の焼き菓子が姿を現す。マンション近くの店で買ってきた、カスタード入りの今川焼きだ。ミツキさんはこれに目がなくて、「いっそ毎食これでいい」と豪語している。  手に持った今川焼きを、ミツキさんは首より上の空間に押しつけるように動かした。本来なら口というか、口みたいな機能を持つ凹凸がある場所だけど、今は何も見えないから、ただ今川焼きが無へと消えていく奇妙な光景だ。  今川焼きが小さくなるにつれて、首上にあった灰色の輪郭がじわじわと上へ広がっていく。 「お団子と月餅(げっぺい)もあるから。好きなだけ食べていいよ」  バッグの中にあるお菓子の包装をちらつかせると、灰色の広がりは加速した。どちらも今川焼きに匹敵するミツキさんの大好物で、「朝団子 昼は今川 夜月餅」という名句が詠まれたこともある。  持ってきたお菓子はあっという間に食べ尽くされた。ペットボトルの緑茶を飲んで、満足げに息をつくミツキさんの頭は、半月ほどまで満ちている。私が見込んだお菓子の三銃士は、かなり頼もしい活躍をしてくれた。  ゴミをまとめてバッグにしまい、入れ替えるようにスマホを取り出す。録画した動画ファイルの中から、先端が鮮やかな色の触手を揺らしながら、緩やかに水中をたゆたう海月(クラゲ)の映像を探して、「この前水族館行ったんだ」とミツキさんに見せた。 「ハナガサクラゲね。とても華やか」  うっとりした調子でミツキさんが言う。ミツキさんはクラゲが好きで、スマホでよく動画を見ているし、部屋には何冊も写真集が置いてある。いつか飼ってもみたいけど、きちんと世話できるか不安だとこぼしていた。確かに不安だと同意したら頬をつねられた。  クラゲの他にもキツツキ、ウサギ、オオカミ、スッポンなど、ミツキさんが好きな生き物は色々いる。自分で撮ったもの、ネットで見つけたもの、いつ保存したか忘れた出所不明のもの、いくつもの写真や動画を織り交ぜて披露する。ミツキさんも自分のスマホの写真や動画を見せてくれて、生き物談義に花が咲いた。熱の入ったミツキさんのトークをたまに茶化して、頬に大輪のつねりも咲いた。  店内だからお互いささやき声だけど、自宅にいるみたいに気楽な時間だ。弱々しかったミツキさんの声はすっかり落ち着いて、頭も満月に近づいている。  これなら大丈夫そうかと思った時、急ぎ足の書店員が私たちのすぐそばを通って、イベント用のテーブルに数冊の絵本を並べた。いくつかはミツキさんの作品だ。他は対談相手の作家の本だろう。  慌てたように去っていった店員から視線を戻した途端、私も慌てた。ミツキさんの頭がまた少しずつ欠け始めている。店員の様子や置かれた絵本を見て、迫りくるイベントへの不安を改めて意識してしまったのだろうか。 「あのさ」  反射的にミツキさんの手を握っていた。滑り落ちたスマホが膝に直撃して、ぐえっと喉からうめき声が飛び出る。ミツキさんが「間の抜けた声ね」と小さく笑った。  膝をさすって苦笑いしながら、「いい案があるんだけど」と切り出す。 「イベントの間、観覧席の私をずっと見て喋ったらどう? 少しは緊張紛れるんじゃない」 「馬鹿ね、対談なんだから、話す相手を見ないわけにいかないでしょう」 「ミツキさんの頭って球だから、向きが分かりづらいでしょ。私みたいに見慣れてればともかく、初対面の相手なら変な方見ててもバレないんじゃないかな」  大げさにあくどい笑みを浮かべると、ミツキさんは「小狡い思いつきね」と呆れた調子で言った。 「まあ、でも、そうね。一応、保険として考えておいてあげる」 「遠慮なく頼って。こっちも顔芸で応えるから」 「やめてちょうだい。お腹が痛くて喋れなくなる」  どちらともなく可笑しげな声がこぼれる。互いの手をそっと握ったまま、くすくすとささやき合うように笑った。  気づくと月は満ちていた。ミツキさんの頭は丸い球形の輪郭を描き、室内灯の下で淡く銀色に輝いて見える。  そういえば、と思い出す。今宵は十五夜だ。帰りにお菓子やお酒を買って、ミツキさんをお月見に誘おう。これもまた、なかなかいい案。  目の前の綺麗な満月に見とれながら、私の心も楽しく満ちていった。
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