スノードロップの傘

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 私の家は、父方のおばあちゃんのころからずっと、庭師の仕事をしている。  おばあちゃんは日本人だけれど、十代の半ばから三十代前半までイギリスで暮らし、庭師として働いて生計を立てていた。それくらい植物によく触れ、ずっとかかわってきた。  同じように日本人留学生のおじいちゃんも、同じ屋敷で働いていた。おばあちゃんは庭師、おじいちゃんは料理人として。そして二人は結婚する。立場や職業は違えど、二人はどこか深いところでお互いを分かり合っていて、幸せに暮らしていた。  けれど、おばあちゃんが三十歳になり、おとーさんが生まれてしばらくたったころ、おじいちゃんは急な心臓発作で亡くなった。途方に暮れたおばあちゃんはおとーさんを連れて日本に帰国し、そのあとは一人でおとーさんを育てた。そしておとーさんがおかーさんと結婚すると、それまでやっていた和菓子工房での仕事を辞め、隠居となった。  おとーさんは、精神科医をやる傍ら、家に広大な庭を造った。同じように植物に魅せられたおかーさんと一緒に。  そして、おばあちゃんは、隠居してからもおとーさんとおかーさんの庭仕事を手伝った。そうするうちに、やりたいことが見つかったと言って、出張中のおとーさんの温室に籠って何やら作業を始めてしまった。その時は私もまだ小さくて、よく覚えていないけれど、二日間ほど閉じ籠ってしまったおばあちゃんのことをおかーさんが心配して家の中の空気が騒然としていたのを記憶している。  二日間温室に籠った末に出てきたおばあちゃんは、私を呼んだ。そして、この世で一番素敵なものを、私にくれた。  それは、傘だった。椿でできた傘。そしてその椿の色を浮き立たせるように周りに盛られた白い小花が、とてもいい役目を果たしている。さらに、持ち手や骨はなにかの葉や茎、蔓でできていたと思う。  それを受け取った時、私は妙に納得した。ああ、これを作るためにおばあちゃんは二日間、ずっと作業をしていたのだろうな、と。  結局、おばあちゃんはそのあと、ほとんど食べ物を食べなかったために栄養失調で倒れ、しばらく入院した。けれど、大事には至らず、二か月ほどで退院して家に戻ってきて、またぼちぼちと傘を作っていた。  四月には藤の花、五月には菜の花、というように、その季節に合った傘を作り、私やおねーちゃん、時には地域の子供たちにもプレゼントしてくれた。  そして私にその仕事を手伝わせてくれるようになったのは、私が小学校に上がった頃だ。
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