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「教えてくれて、ありがとう」
「いやいや。……うちのお姉ちゃんも、助けたいけどどうしようもないって、ちょっと気が滅入っちゃってるみたい」
「そっか……」
「来年は、違うクラスになるといいね。美音さんと沙智さん」
結衣のその言葉は、精一杯のフォローのように聞こえた。
彼女に、うん、と頷き返す。ちょうど私の家の角まで来たので、結衣は「じゃあね」と手を振って別方向に進んでいった。
驚きと恐怖で強張る体を動かし、家まで辿り着く。そして、庭が目に入った。
庭の入り口を見て、私はしばらく言葉を失った。
入口に咲いていた見事な薔薇が、枯れていた。
私はふらふらと薔薇に近寄る。我が家の庭の中で一番綺麗な、この庭の象徴のような薔薇だった。
「ああ……」
次の瞬間、私はその場に頽れ、完全に色褪せた薔薇の花弁に頬を当てて泣いた。人が通るかもしれない、という考えも、頭の中から消え去っている。ただ泣くことしかできなかった。
「うあああああああ……!」
薔薇は枯れる。おねーちゃんは苦しんでいる。
今まで、とても幸せだった。朝は、おねーちゃんがおかーさんと作った朝食を食べた。花に水をやる時、入口の薔薇を見ては、なんて立派に咲いてくれたのだろう、と誇らしい気持ちを全身で味わった。
でも、これからはその日常が、全て終わってしまうのだろうか? そう思ったら、また涙があふれてきた。とめどなく、目尻から零れ落ち、我が家の庭を濡らしていく。
私は、とても長い間、その場に座り込んで泣き続けた。
*
その日から、我が家の日常は、予想通りに狂ってしまった。
おかーさんは、結衣の母からおねーちゃんの事情を聞き、塞ぎ込んでしまった。おとーさんもどこか虚ろな目をしているように見えるし、私だって、体が重い水の中に沈んだような気分のままだ。最近では、温室での作業もほとんどしなくなっていた。
家の中が、泥に浸かってしまったかのように。
そんな中、一人だけ変わらなかったのは、他でもないおねーちゃんだった。おねーちゃんは、まるで何事もないように振る舞う。いつも通り、ご飯の支度をして部活の朝練のために早く家を出る。当たり前のように。
そんな風に、「今まで通りのおねーちゃん」だから、誰も何も、彼女に問うことはできずにいた。
そして、そんな日が続いて二週間ほど経った頃、そう、ちょうど三月に入ってしばらくした頃のことだった。私は、やっと温室に行こうという気になった。いくら行動力が湧かないとは言っても、今まで庭や植物と触れ合い続けて生きてきた私は、流石に二週間も緑とのかかわりを遮断していると落ち着かない気分になるのだ。
私の作りかけの傘に使っている花は、本当にあと少しで庭から姿を消す。その前に作り終えたかった。
「美琴ちゃん、何があっても、その傘のことを忘れたらいかんよお。美琴ちゃんの作った傘は、きっと作り続けるうちに、美琴ちゃんの一部になるだろうからねえ」
おばあちゃんの言葉が思い出された。確かに、あの言葉の通りだったのかもしれない。私と傘とは、もうかなり深い関係で結びついている。ちょっとやそっとでは切れないほどに。
でも私は、私の気持ちがこの傘に伝染しなくてよかった、と安堵もしていた。今の悲しい気持ちが傘にも伝わったら、花が枯れてしまうだろうから。
久しぶりに見た傘は、そのままの姿だった。なにも変わっていない。
私は、それを見た後籠を取って温室を出、傘に使う花を数輪摘んだ。あと少しで、完成なのだ。
そしてその花を傘に差し込めば、花の傘の完成だ。
スノードロップの傘。
作り終えた時、玄関の方から、おねーちゃんの声が聞こえた。私は家まで走って行って、扉を開ける。
玄関にはおねーちゃんが、困ったような顔で立っていた。
「おねーちゃん、どうしたの?」
「あ、美琴。……買い物に出ようと思ったんだけど、傘を学校に忘れちゃったみたいで」
「学校に……」
おねーちゃんは、きっと、学校に戻りたくないはずだ。
「おねーちゃん、私、いい傘持ってるよ」
それだけ言うと、私はもう一度外へ飛び出した。我が家の広大な庭を駆け抜け、温室に辿り着く。その入り口にある、さっき完成させたばかりの傘を掴んで再び家まで戻って扉を開ける。
「はい、これ」
そう言いながら、私はかつてのことを思い出していた。
昔は、私とおねーちゃんの二人で、庭で遊んだ。でもある時から、おねーちゃんは家に籠りきりになった。庭なんて行きたくない、と言うようになってしまった。どうしてかはわからないけれど。
「おねーちゃんには言ってなかったけど、私には、特別な力があるんだ。花に雨が落ちるときの音を、聴くことができるんだよ。その音は、花言葉によって変わるの」
私は必死に言う。その時。
傘を掴む私の手に、柔らかいものが触れる。
おねーちゃんの手だった。そっと、私に重ねてくれる。そして彼女は言った。
「あのね、美琴は知らないと思うけど、私にも、力があるんだよ」
「え……」
「私の大好きな人が感じてることを、一緒に感じられる力。……だから、美琴が今聴いてる音を、私も聴いていい?」
「いいよ!」
おねーちゃんは私に近寄り、自分の額を私の額に当てる。その間から、溶け出すように私の感じている音があふれていった。
スノードロップからの音が、私とおねーちゃんを、植物好きの姉妹に戻してくれる。植物の力はきっと、なにより強い。人に希望を与えることができるほどに。心の底からそう思った。
スノードロップの花言葉は、「逆境の中の希望」。
それがおねーちゃんに届きますように、と祈りながら、私はスノードロップの傘を握りしめた。
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