香夜の日常

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 屋敷の隅にある自室へと香夜は足早に向かう。  もう昼は過ぎているのだ。  早く着替えてしまわねば日宮の若君が到着してしまう。  出迎えは里の者が総出で行うのだと長が張り切って言っていた。  遅れてしまっては、いつものようにきつい叱責が飛んで来てしまうだろう。  一応香夜の養父でもあるのだが、長は香夜のことを小間使いとしか思っていないようだった。  養母も似たようなものだが、長は香夜に「お養父様」と呼ばれるのすら嫌う。  父と呼んでいいのは彼らの愛娘である三津木(みつき)鈴華(すずか)だけなのだと。  香夜に対してはあくまで養ってやっているだけといった態度だ。  故に、長の香夜への態度は基本的には無関心。機嫌が悪い時などは手こそ上げないが、当たり散らすかのように怒鳴られる。  あの野太い声で怒鳴られると、香夜はいつも身がすくんでしまう。  だから急がなくては。  だが、そういうときほど邪魔が入るのだ。  大きな松の木が立派な庭園を眺められる縁側を小走りで進んでいると、突然壁のようなものにぶつかった。 「ぶっ!」  それなりに勢いよくぶつかってしまったため、そのまま少し後ろによろける。  しかも顔面からぶつかったせいで鼻が痛い。  涙目で顔を抑えながら前方を見ると、そこには何もない。ただ続く縁側が見えるだけ。 (あ、もしかしてこれって……) 「ふふふ……香夜ってばぶつかるまで気付かないなんて」  見えない壁の正体に気付くと同時に、庭園の方から軽やかな声が掛けられる。  彼女の名にもある鈴を転がしたような可愛らしい声。  ゆるくうねった髪は薄茶色。茶色の目も光の塩梅(あんばい)によっては金に近く見える。  かつての美しさに一番近しい娘として一族から一目置かれている彼女は、長が殊の外可愛がっている愛娘だ。  一応香夜の方が先に生まれたので鈴華は義妹ということになるのだが、年は同じなので姉妹の上下感覚はほぼない。  どちらにしろ鈴華は香夜を下に見ているので姉妹感覚は皆無だが。 「本当に。結界があることすら気付かないなんて無能にもほどがありますわ」  そして彼女の周囲にはいつも付き従っている取り巻き――もとい、友人達がいた。  結界とは月鬼の女性だけが持つ特殊能力だ。  香夜には分からなかったが、今ぶつかってしまった見えない壁も結界なのだろう。  分からなくとも、昔から似たような方法で嫌がらせをされてきたので嫌でも理解した。 「三津木の姓を名乗っているというのに……本当、鈴華様とは大違い」  ここぞとばかりに持ち上げる少しふくよかな友人も結界は張れなかったはずだが、蔑むように香夜を見ている。  香夜に心だけでなく目に見える傷もつけてきたのは決まってこういう同年代の娘達だ。  流石に今傷をつけられてはたまらない。  何より、早く着替えなければ集合時間に間に合わない。  多少の反感はあるものの、それを見せると長引くので面倒だ。  香夜はいつにもまして感情を押し殺し、黙って嵐が過ぎるのを待つ。 「お母様に呼び出されたみたいだけれど……その包みは何かしら?」  優美に微笑みつつも目ざとく香夜の抱える包みを指摘する。  ことごとく大事なものを壊されてきた記憶が蘇り、思わず包みをギュッと掴む。  だが、大丈夫と自分に言い聞かせた。  この着物は日宮の若君を迎えるためには必要なものだ。養母がそう判断して自分に渡したものなのだから、ちゃんと理由を話せば汚されたりはしないはずだ。 「……これは着物です。みすぼらしいなりでうろつかれては品位に関わると言われて渡されました」  言葉を選ぶように慎重に紡ぐ。  こう言えば大丈夫だろうとは思いつつも、やはり不安はなくならない。嫌な感じに鼓動を速めながら鈴華の言葉を待った。 「そう……確かにそれは必要なものね。あなたには私が若君の接待をするための裏方の仕事をしてもらわなければならないもの」  そのようななりで来られたら確かに目障りだわ、と形の良い眉を寄せて告げられる。  鈴華は長の跡取り娘であるが故に今回の嫁探しの舞には不参加だ。その代わりに長から若君の接待を任されている。  その手伝いも本来なら今周囲にいる友人達がするのだろうが、今回はことごとく舞の参加者となっている。  そういうわけで香夜にお鉢が回ってきたというわけだ。  鈴華の言葉にホッとしたのも束の間。彼女は香夜を小ばかにしたような微笑みを浮かべる。 「私にとっても大事なものなのだから、ちゃんと守りなさいよ?」  その言葉と入れ違いに友人の一人が進み出て桶を構えた。  今までの経験から瞬時に何をされるか悟った香夜は、包みを抱え込むようにして彼女達に背中を向ける。  バシャ!  音と共に背中に冷たさを感じた。  透明なもので匂いも特にないため、ただの水だと分かる。そのことに幾分ホッとした。  酷い時には真夏に放置してしまって酸味を帯びてしまった汁物を、もったいないからという訳の分からない理由で掛けられたこともあったから。 「まあ香夜ってば。そんな守り方じゃあ大事な着物が濡れてしまうわよ? 結界を張ればいいのに」  香夜が結界を張れないことを分かっていながら、クスクスとそれは楽しそうに笑う鈴華。  周囲の友人達も同調して笑い合う。  いつもの嫌がらせだ。八年もたてば流石に慣れた。  でも、それとは別に心はどんどん冷えていく。  怒りも悲しみも凍りつかせ、壁を作る。 「さ、あと少しで日宮の若君が到着するわ。皆行きましょう?」  ひとしきり楽しんだのか、満足した様子の鈴華は香夜を無視して皆に声を掛ける。  去って行く足音が遠ざかり、気配が無くなってから香夜は安堵の息を吐く。  すると一気に寒気が走り体が震えた。 「……早く着替えなきゃ」  このままでは風邪を引くし、何より時間がない。  香夜は寒さに耐えながらまた屋敷の隅にある自室へと急いだ。
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