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雨の日珈琲店『かたつむり』
アイアンの看板を見上げる俺の顔を、細かな雨が霧のシャワーとなって降り注ぐ。
今日は子供の声は聞こえない。
しん、と静まり返った路地裏に佇む赤いポスト。そのすぐ隣でしっとりと咲く青い紫陽花の葉の上を、かたつむりがご機嫌で歩いていた。
カラン コロン カラン
静かな世界に、軽やかなベルの音が響く。
「あら、いらっしゃい。どうぞ」
重厚な焦げ茶のドアに同化して気付かなかったが、丁度顔の高さに下げられた木札を女性――チトセさんがひっくり返した。
かたつむりが頭を出している。これが営業中という事だろう。
「良いでしょ。裏はほら」
女性がさっき返した木札の裏を見せてくれた。かたつむりの殻だけが描かれていた。
「こっちが休業中って事。珈琲、飲んで行くでしょ?」
「いや、えっと――」
「ここに二回も来たって事は、本心は気になってんでしょ?ほら、入って入って」
「いや、その」「俺、珈琲はあんまり」色々言ってはみたが、結局のところは「金が無い」が本音だ。
つい、その本音がぽろりと零れ、チトセさんは「だからいらないって言ってるでしょう」と笑いながら背中を叩いた。
ドアの向こうは、まず珈琲の匂い。
全体的に薄暗いのは、壁にぽつぽつと取り付けられただけの飴色のランプしか無いからのようだ。
えんじのソファ席のひとつひとつに設けられた、天井から床までの大きな窓。垂れる紅いベロア素材のカーテン。
そのカーテンを纏める金色のタッセル。店の奥から入り口まで伸びるL字のカウンター。
目に入るもの全てがやたらとレトロで、昭和にでもタイムスリップしたみたいな錯覚に陥る。
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