第一章 あなたを見ていた

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 その日、勤務を終えて帰宅すると、母の夏海が玄関に飛んできた。広い屋敷に母と僕の二人暮らし。  「歩夢、お父さんがお見えですよ」  「今日も?」  夏海は実母だが、身寄りのない彼女を引き取る形で五年前から同居している。居心地が悪いので、僕をさん付けで呼ぶのは早々にやめさせたが、僕に丁寧語を使うのはまだやめられないようだ。  ダイニングに行くと、父の守は何かの景気づけのようにグラスのビールを一気に飲み干した。父はつきあいならどんな酒でも飲むが、プライベートで飲む酒はもっぱらビール。一方、僕はアルコール自体が苦手。つきあいでちょっと飲むくらいで、プライベートではまったく飲まない。  父と向かい合うように僕も椅子に腰掛ける。  「仕事に余裕があるなら、この家に入り浸るより奥さんの相手をしてあげた方がいいんじゃないですか? この前会ったとき、私もあなたの家に引っ越そうかしらって愚痴を聞かされましたよ」  僕は夏海を〈母さん〉と呼び、養母は〈奥さん〉と呼ぶ。つまり、僕には実母と養母、二人の母親がいる。父といっても守は養父。養子縁組した当初から住まいも別。  養父の守と実母の夏海が愛人関係にあるとか、そういうきな臭い話は一切ない。というか、守が夏海を毛嫌いしている。どちらも僕の親であるという一点で表面上は当たり障りない会話をしているが、二人が心から和解する日は来ないだろう。  「今日は歩夢に用があって来たんだ」  「晩酌の相手ならほかを当たってください」  「そんな用じゃない。酒の弱い歩夢と飲んだって酒がうまくならないからな」  父は茶色のかばんから白い封書を取り出した。それを受け取り開封して中を見ると、封筒の中にさらに一回り小さな封筒が入っていた。めんどくさいなと思いながら、その封筒に入っていた丁寧に三つ折りに畳まれた紙片を取り出した。紙片は三枚あったがなぜかすべて和紙。一枚目の最初にでかでかと〈釣書〉と墨書きされていて、僕は言葉を失った。  「釣書? 僕に見合いしろって言うの?」  「そうだ。おまえが自分で相手を見つけられるなら、こんなおせっかいを焼くつもりはなかった。歩夢を養子にしてもう五年になるが、結婚どころか恋人を作る気配さえない。実の両親の醜い姿を見せられて恋愛に臆病になってるのだろうと思ったが、そういうわけではないとおまえは何度も否定した。もしかして精神的なショックを受けたせいでEDになってるのかと聞いたときも、そんなことはないと笑って否定した。子どもができなかったおれたち夫婦は歩夢を養子にするということで、子どもを持つという夢を叶えることができた。ただし歩夢を養子にしたのは歩夢が二十歳のとき。大人になってから養子にしたから子育てを経験できたわけではなかった。今の一番の楽しみは孫の誕生と成長を見届けること。おれももう65歳。おまえにも考えがあるとは思うが、老い先短い老人の願いを叶えてはもらえないだろうか」  人に頭など下げたことのない父に深々と頭を下げられた。卑怯だと思う。そんなふうに言われて大きなお世話だと突っぱねられるほど僕のつらの皮は厚くできてはいない。実父と兄妹と絶縁し一人ぼっちになった僕を養子にしてくれて父に感謝しているし、父の期待に応えたいという気持ちもいつも持っている。  聞けば、釣書のやり取りまでするのは珍しいが、上司が部下の男女を引き合わせることはうちの会社では珍しくないらしい。養父の守も上司の紹介でほかの部署で働いていた今の奥さんと交際することになったのが馴れ初め。ちなみに実父の清二はそういうのが嫌で会社と無関係の夏海と見合いして結婚した。  父に言われたからと言っておとなしく見合いするつもりはないが、父の空のグラスにビールをなみなみと注ぐ。  ありがとうと言って父は再度ゴクゴクとうまそうに飲み干していく。  「歩夢が見合いしたくないのは分かってる」  「じゃあ、どうして!」  「見合いは嫌でもその人との見合いは嫌じゃないだろう?」  と言われて、〈なんのこと?〉と思いながら釣書をまた手に取って和紙を開き視線を落とした。  名前    小木歌歩(おぎかほ)  生年月日  平成○○年○月○日  本籍地   東京都○○区○○町  現住所   東京都○○区○○町○番○号        ○○マンション○○号室  最終学歴  令和○年三月 ○○大学文学部卒業  勤務先   令和○年四月 昭和建設株式会社入社        総務部経理課配属 現在在職中  資格    普通自動車免許  趣味    お菓子作り  健康状態  良好
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