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私には、六つ上の兄と、二つ下の弟がいる。
そして、私と兄の間にはもう一人、生まれてくる前にこの世からいなくなってしまったきょうだいがいる。
それを聞かされたのは、大人になって、母と酷い喧嘩をした夜のことだった。
もともと私と母はそりの合わない性格な上、私の言葉となるとわからず屋になる母の態度に、私の心は悲鳴をあげていた。
思わず「もう死にたい」という言葉が、私の口から出るくらいには。
それを聞いて、まるで反撃するかのように「お前の前の子は、生きられなかった」と母は怒鳴った。
ショックだった。
それは、不信感や怒り、悲しみともどかしさをこねて、こねすぎて凝り固まってしまった私の心をパーンと破裂させ、急速に冷静な世界に引き戻した。
続けざまに「お前のせいでそうなったわけではないけど」と母は取り繕ったけれど、それは逆に、私のせいなのではないか、と思わせるだけの威力があった。
その子と私がいくつ離れているのかは訊いていないからわからない。けれど、兄と私の間が六年あるという、長年抱いていたうっすらとした疑問になりきらない疑問に、納得のいく答えが与えられた気がした。
その子が兄なのか、姉なのかもわからない。あるいは、それが分かる前に、この世界からいなくなってしまったのかもしれない。
その子がもしも生まれていたら、私は生まれていなかったのだろうか。それとも、生まれていなかったのは私の弟の方だろうか。
その子が「生きられなかった」のは、本当に、私のせいではないのだろうか。
情報の欠片と私の推測の中にしかいないその子。
ずっと考えているうち、私はその子のことを、もっとずっと前から、なんとなく知っていたのではないかということに思い至った。
幼稚園の頃のことだ。私は夢を見た。未だに覚えているくらい、はっきりとした夢だ。
その夢の中は白くふわふわとした雲の中のようなところだった。
そこには私と、幼稚園のスモックみたいな服を着た、ひとつかふたつ、年上の男の子がいた。
私から誘ったのか、その子から誘ったのかはわからないけれど、私たちは手を繋いでまさに遊ぼうとしていたことだけは確かだ。
朝、寝坊助な私と弟を起こすのは父の役目だった。
起き抜けに、何気なく父に夢の話をすると「それはちょっとまずいな」と父は言った。
幼い私が「なんで」と聞くと、父は曖昧な顔で笑って、何かを誤魔化した。
きっと、あの子が私の『もう一人の兄』なのだ。
そしてその子は多分、私をずっと支えてくれていた。
幼稚園の頃の私は、友達と遊ぶのがとても下手だった。
幼稚園に行けば時々お話をする友達はいたけれど、友達を遊びに誘う方法や、みんなの遊びにまぜてもらう方法がわからなかったから、大抵いつも一人で園庭をうろついていた。
けれど、私はそれをおかしなこととは思っていなかった。ぽつんと一人で園庭をうろつくだけの日々でも平気だった。
だって、それでも楽しかったのだ。何故なら、厳密には一人ではなかったから。
いつも、顔の見えない男の子がいた。その子がいつも一緒にいてくれたから、すこしも寂しいとは思わなかったのだ。
おままごとも冒険ごっこもお姫様ごっこも水戸黄門ごっこも、全部その子が付き合ってくれた。
転んで擦りむいてしまっても、その子の前では強がることができた。
叱られて一人で泣いている時も、その子だけは私の味方だった。
その子は、私が一人でいると、たちまち駆けつけてくれた。
だからいつだって私は一人じゃなかった。
小学校に上がってちゃんとした友達ができて「普通」に遊べるようになっても、一人で帰る通学路や退屈な授業の合間にその子は私と遊んでくれた。
大人びた長いスカートを履いた時も、苦手だった散髪の後も、初めて浴衣を着た時も。
私が鏡に映った瞬間、誰よりも先にその子が見てくれた。
両親でも祖父母でもなく、一番初めに「おおー」と感心して褒めてくれるのはいつだってその子だった。
名前も顔も声も知らない。けれど確かに、笑いかけてくれた彼の思い出がある。
今、その子はもういない。いつの間にか私の中から消えて、最後にどんな遊びをしたのかも、何という話をしていたのかもわからなくなってしまった。
私が一人でぽつんと歩いていても、その子が笑って私の手を引いてくれることはもうないだろう。
私が大人になって、正真正銘、一人でいることが平気になるまで、彼は私の心の一番近くにいてくれた。
人に話せば、イマジナリーフレンドだろうといって流されてしまうような話だ。あるいは、幼い頃の私のこころを心配する人もいるだろう。
確かに彼は、私にだけ都合のよい、私の妄想の産物なのかもしれない。
けれど、私が生まれる前に「生きられなかった」一人のきょうだいがいたことと、小さな私を助けてくれていた誰かが私の中にいたことだけは事実なのだ。
私は彼がそこにいたことを覚えている。ずっといてくれたことを知っている。
ありがとうも言えないまま、いつの間にか「さよなら」していた彼だけれど、私はその存在を生涯忘れることはないだろう。
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