雨声朗々

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雨声朗々

 雷鳴のごとき勢いで響き続けるノックの音で、俺は目を覚ました。  玄関の覗き穴に目をあてると、水玉のワンピースを着た、ずぶ濡れの少女が外に立っているのが見えた。前髪から流れる水滴を払いながら、手を休めることなくドアを叩き続けている。「そこにいるのはわかっているぞ!」と喚く声が、ドア越しに聞こえる。  思わず俺は手のひらで片目を覆う。昨晩の深酒のせいであろうグラグラとした鈍痛が、頭の芯に居座っている。  キッチンに置いたデジタル時計は、午後五時を示している。どうやら、半日以上眠っていたようだ。おまけに冷房もつけていなかったようで、汗だくである。 「くっそ……」  胡乱としたまま、俺はドアを開ける。 「うるせえよ。せめて呼び鈴を鳴らしてくれ」 「あ、やっぱりいた」  そう笑って、少女は俺の部屋にズカズカとあがりこんだ。部屋が濡れるのもお構いなしといった様子だ。  俺は少女のあとを追い、その頭にバスタオルを覆いかぶせた。 「お構いなく」  少女が言った。 「構わないと部屋が水たまりだらけになっちまう」 「たしかに」  長い髪を拭きながら、少女がうんうんと頷く。そして、勝手知ったる動作で冷蔵庫から麦茶をとりだし、グラスに注ぐ。  俺は、おさまらない鈍痛と頭上に叩きつける雨音に苛まれながら、その仕草をぼうと見つめる。 「久しぶりだねえ」  窓際に置いた扇風機の前に座りながら、少女が言った。二日酔いの頭にブッ刺さる無駄にデカい声音に、めまいがする。 「突然、なんのつもりだよ」  「そりゃあ、こうして夕立が降ってるんで」 「だから?」 「いや、あとは分かるでしょ?」  ……わかんねえよ。呟こうとした言葉が、そのまま嘆息となる。  窓の外を見やる。雨が降っている。そこから見える街並みを、まるごと消し去ってしまいそうなほどの暴力的な勢いだ。 「相変わらず、いい感じの部屋に住んでるね」  少女が天井を見上げながら言った。 「皮肉か? 六畳一間の安アパートだぞ」 「いい部屋だよ。ほんといい感じの……雨音が聞こえる」  少女が目を閉じる。雨音に耳を澄ませているのだろうか。  いい感じかどうかは分からないが、このアパートは屋根はトタンで、壁も薄い。雨音が鳴り響くには、最高の音響環境を備えているといえるかもしれない。 「わざわざ雨音を聞きに来たのかよ」  俺は言った。 「それもなきにしもあらずんば」 「肯定か否定かよくわからん」 「それが狙いでもないこともなくなくなーい?」   いたずらに笑いながら、少女が窓を開けた。よりクリアな雨音が、部屋を満たす。  不規則でいて、秩序めいている。やかましくも、静けさを帯びている。例えるなら無数の光が散っていくようなその響きの包囲を、なぜだか俺は悪くないな、と思った。  雑然とした心地よさに囚われていると、雨音に紛れた少女の声が、俺の耳に滑り込んできた。   少女が歌っていた。透明感のある、高らかな歌声だった。歌詞のない、ラララだけで構成されたメロディー。その調べに、ほのかな懐かしさを感じて、俺は言った。 「その曲……」 「ん?」  「その曲、いつか聴いたことがあるな」 「あたりまえでしょ」  だって、と少女は言った。 「これ、君が作った曲だよ」  そんな馬鹿な。自分が今まで作った曲くらい、流石に覚えている。俺はかぶりを振った。 「覚えがない」 「えー、昔、聴かせてくれたじゃん。こんな夕立が降っている時に。ギターを弾きながらさあ」 「だとしたら、たぶんそれ適当な鼻歌かなんかだぞ」 「なっ……」  少女がわざとらしく目を開く。 「まさか天才?」  やめてくれ、と俺は薄笑いで返す。 「天才なもんか。そもそも、もう音楽は辞めたんだ」 「じゃあ、あれはインテリアかなにか?」  そう言って少女が、部屋の隅に目をやる。そこには、埃を被ったアコースティックギターが立て掛けてある。もう何年も弦の張り替えすらしていない。 「あれは……」  俺は言った。 「墓標のようなものかな」 「辛気くさーい」 「なんとでも言え」 「ねえ、なんで辞めちゃったの?」 「なんでって……」  言いかけて俺は考えた。なんで辞めてしまったんだろう。  才能がなかったから? 金にならなかったから? 生きることの目まぐるしさの中で忙殺されてしまった? 自分にとって、音楽はその程度のことで辞めてしまうような行為だったのか?  音を奏でたいという衝動が体に宿る感覚を、俺は思い出そうとする。  うだるような暑さを感じる夏の午後に、ひとり部屋で一日の終りを待っている。そんな時、夕立の音が音が聞こえてくると、無性にギターが弾きたくなる。心に染み込んだり、掻き乱したり、時には何かを思い出させてくれたり。そんな情緒めいた音の重なりに、俺もまた音で応えたいと思ったんだ。  たったそれだけだ。音楽なんて、それだけの理由で、生まれるものなのではないか。 「この部屋の雨音は、ホントいい感じだけどさ」  少女は言った。 「君の歌も、なかなかいい感じだったと思うよ。いつかまた聞かせて欲しいな」  少女が麦茶をあおり、グラスに落ちた氷が凛とした音を立てる。その余韻がおさまるのを待ってから、「さてと」と少女は言った。 「そろそろ行かなくちゃ」 「まだ雨が止んでないぞ」 「そうだねえ」 「雨宿りしにきたんじゃないのかよ」 「それもなきにしも入らずんば虎子をえずない」 「だから、その感じわかんないって」 「冗談だよ。大丈夫、もうすぐ止むから」  さらば! と言いながら、少女はタオルとグラスを俺に押し付けて部屋を飛び出した。  俺は玄関から顔を出し、「ひゃあー」と言いながら走り去っていく、その後ろ姿を見送った。この夕立のように、騒々しい奴だった。  部屋にひとり残された俺は、ギターを手に取った。頭の中で音叉が鳴って、迷うことなく調律を終える。  ギターを抱えながら、窓際に腰掛ける。遠くに見える雲間からは光が覗き始めているが、雨はすぐには止みそうにない。さあさあと、雨音が俺を急かしているように感じた。  少女の歌声を思い出しながら、ギターを爪弾く。こみ上げたメロディーが、自然と唇から離れていく。  ――ああ、たしかに。 「こりゃあ、俺の歌だ」  俺は笑う。古い友人と再会したような、面映ゆい嬉しさがこみ上げる。崇高なコンセプトも、心を鷲掴みにするキャッチーさも無い。ただ何気なく雨音に寄り添う、これが俺の音楽なんだ。  雨脚が弱まる。その変拍子にアルペジオで応えながら、俺はふと考える。  そういえば、あの少女はいったい何者だったのだろう。  結局、名前もわからずじまいだ。それどころか、もう顔さえも忘れてしまっている。かろうじて頭に残っているのは、あの朗々とした歌声だけだ。確かに、いつか俺がギターを弾いていた隣に座っていたような気がしなくもないが。  ……まあ、いいか。  夕立が降ってる。いい感じの雨音がする。俺は、ちっぽけな歌を口ずさむ。世界を廻る、この壮大な和音に乗せて。
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