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眠りから弾き出されるように目覚めた朋子(ともこ)は、枕元の時計に手を伸ばした。
午前2時
辺りは暗く、草木も眠る丑三つ時というだけあって同居する家族はもちろん、現実世界が丸ごと鳴りを潜めていた。
夜中に突然目が覚めるのは最近では当たり前になったが、誤って寂莫とした無人駅に降り立ったような感じがして未だに慣れない。
よく眠れず夜中に何度か目覚めることには、原因があった。
奇妙な耳鳴りのせいだった。
ザーザーという雨音に似た音が、外界から音を遮断するように朋子の耳の奥に絶えず響いていた。
耳鼻科にも行ってみた。
問診の後耳の内部を検査し、さらにヘッドホンをつけて聴力検査もした。
全人口の10~15%に耳鳴りがあって、その9割以上は難聴によっるものだと医者は言った。
「つまり外部の音が聞こえにくくなると、脳がその不足を補おうとして音を作り出すということです。本来ない音が聞こえるのを自覚的耳鳴りといいます。あなたの場合はそれですね。
で、難聴の多くは加齢が原因ですが、あなたは17歳と若いので他の原因が考えられます。中耳炎とかメニエール病などですね。あとストレスも原因になります」
雨音が聞こえるにもかかわらず、智子の聴力は正常範囲だった。めまいや耳の病気も思い当たらなかった。
その雨音は、朋子の周りで人々が何か喋っていると強まった。まるで人々の声をシールドするように。
医者の説明とは真逆で、外部の音が聞こえにくいのではなくそれを消そうとして本来ない雨音を作り出したと言える。
雨音が耳鳴りに匹敵するほど強く意識されるようになったのは高校生になってからだが、その発端は、小学生の時の出来事にあった。
絵を描くのが好きで授業中でもノートの端などに落書きしていた朋子は、ある日その落書きが先生に見つかって注意された。
それは朋子が自分で作り出したシマリスのキャラクター、シマリンの絵だったが、描きかけなので縞も尻尾もなかった。
担任は教育熱心な男性教師だったが、容赦なく𠮟りつける無神経な所があった。
「授業と関係ない、こんなモグラの絵なんで描いてるんじゃないぞー!」
未完成とはいえ自分の大好きなシマリスをモグラと言われたことに、朋子は傷ついた。そして、彼女の席の周囲で「モグラ、モグラ」とはやし立てるように言ってくすくす笑う声が虫の羽音のように湧き起こって、朋子は耳をふさぎたくなった。
授業中に落書きをしていた自分が悪いとはいえ、彼女の大切なキャラクターをモグラと言って嘲笑の的にしたことが許せなかった。
もともと朋子は人一倍感受性が強かったが、中学、高校と思春期になると、他人のうわさ話や悪口が聞こえるとそれがガラスをひっかく音のように不快で、心の中で耳をふさいだ。
そうするうちに、「聞きたくない」という思念が雨音に変わっていった。
高校2年に進級して1か月も経たないうちに不登校になり、スクールカウンセラーとの面談を勧められたがそれには学校に行かねばならないので、実現していない。
学校から両親にも連絡があったが、多感な難しい年頃でもあり自殺などされたら大変なので、しばらくそっとして様子を見ようということで両親の見解は一致した。
朋子は不登校の負い目を若干引きずりながら、毎日部屋や図書館やカフェで本を読んで過ごした。いずれは今の学校をやめて、通信制の高校に入るつもりだった。
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