飛んで火にいる夏の虫

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 俺は必死に眠ろうとした。眠れないなら眠らないほうが良い時もあるだろう。けれど眠らないまま朝を迎えどうして眠らなかったんだと後悔した日々がある。だから必死に眠ろうとしてしまうのだ。そんな日は決まって悪夢を見る。今日も、そうだった。  夏の夜はいつもエアコンの温度設定に悩む。二十七度は暑い。二十五度では寒い。二十六度が丁度良いと思いきや少し暑い。仕方なく扇風機を弱でつける。そして暑かったり寒かったりを繰り返す。そうしていると眠れなくなるのだ。いつもならスマホを見て眠くなるのを待つが今日はなんだか猫を触りたくなった。飼っている黒猫のクロを。床の上で寝ていたクロをベッドの上へ乗せ、眠れないことへの苛立ち、夏という不快でしかない季節、最近切り替えたクロのエサ、クロがいかに可愛いかについて撫でたり頭を腹に乗せたりしながらだらだらと話し掛ける。クロは不機嫌そうだが俺は構わず続けた。それでも眠気はやって来なかった。  最後の手段として羊を数えることにした。けれどそれではつまらない。俺は羊のかわりにクロを数えた。二百八十二匹、そこで記憶は途絶えている。  俺は建て替える前のじいちゃんの家の縁側でスイカを食っていた。もう亡くなった筈のじいちゃんが俺の右隣でにこにこしながらスイカの種を庭に吹き出す。俺はこれが夢だとすぐにわかった。けれど夢だとしてもじいちゃんに会えたことが俺は嬉しかった。ばあちゃんもいるのかなと振り返って家の中を見る。ばあちゃんは居間で新聞を読みながら麦茶を飲んでいる。懐かしくて胸が締め付けられる。もう一口スイカを齧る。すると何故か塩っぱい。俺はスイカに塩をかけるのが大嫌いだ。じいちゃんも知っている。じゃあ誰だと左隣を見る。知らない男が塩の瓶を持って座っていた。 「誰?」  ぎょっとして俺は聞く。 「クロだよ」  黒髪で色白、ワイシャツに黒いズボンを履いた年齢不詳の男が答える。 「猫の?」 「他に誰がいる」  妙に嫌な言い方だ。俺はムッとする。 「塩かけんなよ」 「こうしたほうがうまい」  クロだと名乗った男はまた俺のスイカに塩をかけようとした。 「頑固なラーメン屋か。やめろ」  俺は肘で応戦する。  するとそこへガシャンガシャンと轟音を響かせて何かがやって来る。黄色いブルドーザーだった。操縦席にはじいちゃんが座っていた。 「塩をかけて食べろ」  もう死んでいるから正しいのかもしれないがじいちゃんは死んだような目をしていた。そして俺に向かって突進して来た。  命からがら逃げた俺をよそにじいちゃんは家へと突っ込んで行った。居間にはばあちゃんがいる。 「やめて、やめて、わかったから!」  両手をぶんぶん振って俺はじいちゃんに叫ぶ。  スローモーションで時間が流れる。ばあちゃんはまだ呑気に新聞を読んでいる。クロは俺のスイカに塩をかけている。じいちゃんはブルドーザーをバックさせ、また突っ込んで来た。 「やめろ!」  俺はじいちゃんに飛び付く。じいちゃんの体は冷たかった。  目覚めた俺は大汗をかいていた。スマホの明かりを付ける。眠りに就いて二時間程しか経っていなかった。まだ眠らなきゃいけないと目を閉じる。目の端にクロの姿が見えた気がした。  俺は地元の夏祭りに来ていた。浴衣を着て盆踊りをしている人の中にテレビでしか見たことのない顔がちらほら。どうしてこんな田舎の夏祭りにと思うが理由は一つだった。これが夢だからだ。夢の中だとしても俺は踊る気になれず屋台を回ることにした。焼きそばの屋台の鉄板の上で焼かれているのは麺のように見せているが麺ではない。毛糸だ。金魚すくいの屋台の水の中を流れるのは金魚ではない。煮干しだ。りんご飴の屋台で売られているりんご飴の中身はりんごではない。色々なサイズのボールだ。 「いらっしゃい、いらっしゃい」  客を呼び込みたいのか呼び込みたくないのかわからない暗い声が聞こえる。声のするほうを見るとさっきの夢にも出てきた人間のクロが同じ格好をしてそこにいた。 「射的、やってかない?」  クロは返事を聞かずぐいぐいと俺を屋台へと引っ張って行く。そして屋台の中へ俺を押し込んだ。 「ちゃんと立ってろよ」  本来なら客が立つ位置でクロは銃口を俺に向け躊躇せず引き金を引いた。 「うわあっ!」  俺は避けようとしたが脇腹に激痛が走る。  クロは次の弾を込めている。息を呑んだ俺は目を見開く。目の前にあるのは自分の部屋の天井だった。 「クロ、お前ってやつは」  どこかにいる筈のクロに恨めしく声を掛けるが返事はない。まだ暗い部屋の中で俺は目を閉じる。  俺はいきなり呼吸困難に陥った。水の中にいる。落ち着けと自分に言い聞かせ周りを見回す。ここは海じゃない、川でもない、かなり深いがプールだ。俺は水面へ向かって泳いだ。そこへ誰かが飛び込んで来た。助けに来てくれたのかどうか俺にはわからない。顔が見えない内からそれが誰なのか想像がついてしまったからだ。人間になったクロだろう。だからこれは夢だ。もう何もするなと言わなくては気が済まない。水面に顔を出しクロを待ち構えた。しかし俺はいきなり体を掴まれた。 「俺は泳げないんだ!」  ジタバタとクロが暴れている。しがみつく力は尋常ではない。 「やめろ、やめろ!」  また水中に引き戻される。鼻から水が入ってくる。クロが俺を蹴って水中から出ようとしている。負けてたまるかと俺はクロを掴んで水面を目指す。そしてやっと水中から出て息を大きく吸ったところで俺は目を覚ました。  ハアハアと息を切らせて起き上がる。ポタポタと額から汗が垂れた。クロにどうして夢の中で俺を苦しめるのか問い質したかったのに声が出ない。そしてクロを探す内に目が回ってどさりと倒れてしまった。  湿度が高くムワッとした暑さの中散歩をしていた俺は木陰を見つけそそくさとそこへ逃げ込んだ。暫し休憩しようと空を見上げるとモワモワとした大きな入道雲がゆっくりと流れていた。何かの形に似ている。ソフトクリームかと思えばカニへ、それからブドウ、ハマグリと変化していった。どれもクロが欲しがったが俺があげなかったもの。猫の体には良くないからだ。 「おい、今くれよ」  ここ何時間かで何度も聞いた声が聞こえる。  顔を下げると鼻がくっつきそうな距離にそいつがいた。心臓が痛くなる。あまりにも近くに誰かがいると人間はこうなるのだ。あ、そうかこれは夢か。わかったその瞬間、ピピピピッというスマホのアラームで悪夢から救われた。けれど何やら良くない匂いがする。毎日片付けているクロのそれの匂いだ。ここにクロのトイレはないのに。猫の姿をしたクロが枕元でにんまりと俺を見下ろしている。そのすぐ横に確かにそれが見える。これが現実だなんて信じたくは無かった。
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