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第10話「四つの数字」
(総務係 影山雪和) 2015年12月
いつの間にか、業務外で妙な習慣ができた。
安座富町中央病院の地下には、業務委託スタッフのための更衣室、兼休憩室があって、総務係の影山は、時々ここを訪れた。
簡単に言えば、スタッフと世間話をして愚痴を聞くのが目的だ。
清掃業務の現場リーダーである田仲秀子は、影山の母親と同世代で、確か今年で67歳になる。定期の打合せに参加しているうちに、影山は田仲に何かと頼られるようになった。
12月の初め、霜が降りるほど空気の冷たいその日は、総務係長の須井が年休をとっていた。そんな時に限って患者用駐車場で接触事故が起きたものだから、影山が対応するハメになった。
17時半を回った頃、影山はふと思い立ち、売店で煎餅とチョコパイを買って休憩室を訪ねた。
「おぉ、影山さんじゃないの。久しぶりだねぇ」
休憩室に入って最初に声をかけてきたのは、調理委託の現場リーダーである東田治夫だ。今年60を迎えた、気のいいおっちゃんである。
「僕もちょっと忙しくて。ご無沙汰してます」
「まあ座んなよ、今お茶出すからさ」
そう言うと、彼は奥へ引っ込んだ。この時間は調理の真っ最中のためか、若手スタッフはいない。
影山は先に中央のテーブルについた。冷え冷えする地下の廊下と比べると、この部屋は暖かかった。
「あ、影山さん。お疲れさまです」
滅菌委託リーダーの日比野理香がやって来た。委託業務のリーダーたちの中で、彼女は一番の若手だ。
更衣室からは、誰かが着替える気配を感じる。スタッフの多くは、巻き込まれずにさっさと帰りたいのだろう。
「田仲さんたちも、もう戻ると思いますよ」
ほどなくして、洗濯リーダーの鈴本夏子が戻り「ご無沙汰じゃんっ」と影山の肩を叩いた。とにかく元気がいい。
中央病院でいう委託契約は、民法的には請負にあたる。
派遣契約と異なり請負契約では、スタッフの労務管理や苦情処理は、請負側の責務になる。また病院とスタッフとの間に指揮命令系統は存在せず、直接指示を与える運用がある場合、偽装請負として労基から指摘も受けかねない。
その点は影山も、契約担当者からよく注意されていた。
よってこのお茶会は、詰まるところ、ただのお茶会なのだった。
着替えを終えたスタッフたちは、次々と帰って行く。
リーダーたちは会社や病院職員だけでなく、部下の愚痴も言いたいものだから、彼らが去るのを待つような雰囲気があった。
「俺さぁ、参っちゃったよ、最近の若いヤツら」
見計らって話を始めたのは、東田だ。
調理委託は件名が「調理」とはなっているが、作業は下処理と食器洗浄だ。調理そのものは、病院が正規雇用する調理師が担当していた。
「最近採用した若いのが、まあプライドが高いのなんの。ここじゃ腕は磨けねえよって最初に言ったのに、ぶんむくれてさ」
「イメージと違ってたんですかね」
「調理をやりたい気持ちは、俺もわかるけどよ」
中央病院では元々、直接雇用の調理師だけで業務を回していたが、数名退職し、補充を要した。そこで安価な全面委託への切替案が出たが、残った調理師を辞めさせるわけにもいかず、結果的に何とも中途半端な委託契約となった。東田は元職員で、60を機に業者側に籍を移している。
「室長もさぁ、栄養士と合同で調理講習会をやるって言ったきり、やりゃしねえ」
「何だか、もったいないですね」
委託スタッフのモチベーションを保つ義務など病院側にはないが、そういう機会があってもいいなと、影山は思う。
「ウチらはみんな同じような世代だから、東田さんみたいなストレスはないけど、職員さんのクレームにはホントに苦労するわ」
鈴本が、煎餅を割りながら言った。
「洗濯の仕上がりですか?」
「そうよぉ、洗濯のせいで術衣が伝線したとか、ボタンが取れたとかさ、言いたい放題」
彼女らが請け負う洗濯業務では、寝具とタオルはリースだが、衣類は病院や職員の所有物だ。中央病院には洗濯場がなく、業者の洗濯工場を使う。
「洗濯方法を変えた影響なんですか?」
「あ、知ってんの影山さん。でもそれ、デマよ。うちの営業がペコペコして適当なことばっかり言うんで、現場が困るわ」
「営業の方って、いつも板挟みですね」
「それが仕事でしょ。確かに、前は綿の混紡率が高いものは手作業でプレスしてたけど、高くつくから自動仕上げ機に変えたんだわ。でもその影響なんて微々たるもんよ」
この問題は以前から時々あったが、病院と業者のどちらに過失があるのか、実際にはよくわからない。
「業者さんはどうしても立場が弱くなっちゃうから、大変ですよね」
「まあ、私はそんなに弱くないけど」
鈴本は笑う。影山は、それは確かだと思った。
「契約は確か四つとも、今年度の末で更新だったなぁ。やっぱり今の時期は、総務課は忙しいんかい」
お茶をすすりながら、東田が聞いた。
「調達係はその準備で、忙しいでしょうね」
調達係は隣の部署だ。もうすぐ子どもが生まれるというのに、以前にも増して仕事に精を出す調達係長の塚村は、影山にとって隣の芝生だった。
「調達といえば、ダヴィンチが入りますね」
日比野が少し遠慮がちに言った。彼女はいつもこのお茶会に参加はするが、積極的に愚痴を言うことはほとんどない。
「ダヴィンチって何じゃい」
「内視鏡手術支援ロボットです。契約はもう終わっていて、確か三月に入る予定です。そっか、日比野さんたちにも関わる話なんですね」
ダヴィンチは主に前立腺がんの手術に使用するもので、泌尿器科からの三年越しの要望で購入が決まった。
経理係長は、ダヴィンチに電子カルテと高額投資が続くので、資金繰りも減価償却費も頭の痛い問題だと嘆いていた。
「一度メーカーと打合せしようって言われました。私たち向けに、研修もやってくれるって」
滅菌業務委託は、手術室エリアに常駐し、手術や処置で使う鋼製小物の洗浄・滅菌を行う業務だ。
「でも問題があって、スコープは手洗い洗浄で滅菌はプラズマ、鉗子類はジェットウォッシャーとオートクレーブなんですが」
「複雑に分かれてるんですね」
日比野によると、ダヴィンチ用鉗子の洗浄には中性洗浄剤を使用する必要があるが、中央病院のジェットウォッシャーにはポンプがひとつしかなく、現在はプリオン病感染予防ガイドラインに基づいてアルカリ性を使用している。
誰にどう判断を仰ぐべきか、彼女は悩んでいた。
「メーカーにも相談はしますが、師長があまりこの話を重要視してなくて…」
むずかしい話になってきた。東田や鈴本は、別の話を始めている。
「本当は日比野さんが悩むことじゃなく、病院が決めるべきことですよね」
「はい…。あ、でも影山さんも困っちゃいますよね。調達係の方に相談してみます」
返答に困る影山を、彼女は察したようだ。
そこに、ドタドタと一人の女性が入ってきた。
「お疲れ、田仲さん。今日は遅かったねぇ」
鈴本が言うと、田仲も「お疲れさま」と答えた。東田はお茶を用意するためか、席を立った。
「あぁ、疲れた。影山さん、いらしてたんですね」
田仲が影山の隣に座る。
清掃委託は文字どおり、清掃を請け負う契約だ。廃棄物の院内回収や、定期のワックス掛けも行う。
「私、やんなっちゃった」
「なあに、何があったのよ」
「会社がどうしようもないの。先月の何とかっていう会議で、清掃時の手袋交換は今までよりマメに、病室ごとにやるって決まったらしくて、その追加分の費用について総務課さんと話したのね」
田仲は鈴本に説明した。連絡調整会議は影山も出席しているので、内容は把握している。
「営業の朽木さん、ウチで用意しますって言ってくれましたよね」
「でも、送って来ないんです。それで、感染管理の看護師さんから私が叱られちゃって」
「えっ。そんなのヒドいじゃん」
鈴本が声を上げた。
「いい加減な人でね…。困っちゃう」
「それ、ちょっと問題ですよね。須井係長には、僕から報告しますよ」
「ホントですか、申し訳ないです」
田仲はぺこりと頭を下げた。
影山は、彼女に対して後ろめたさがあった。
それは、今年の2月のことである。患者用トイレで吐物が発見されたとき、須井も影山も消防設備点検の下見で、たまたま近くにいた。田仲も、後から現場にやってきた。
吐物処理にはマニュアルがあり、防護服着用で除去後、次亜塩素酸ナトリウムで清掃する。
その作業に看護師が当たっていたのだが、そのとき須井が「こんなの清掃業者にやらせりゃいいんだよ!」と言ったので、影山はぎょっとした。
反射的に田仲のほうを振り向くと、その表情は想像とは異なり、先を越されてしまったことに焦っているようだった。確かに吐物処理の担当を明確にする必要はあるかもしれないが、須井のあの言葉は、影山には苦い記憶となった。
お茶会は、一通りのおしゃべりが終わると、お開きになった。これが最後だろうか。4月にもし契約業者が変わっても、同じスタッフを後任業者が雇うケースは有り得る。だが調理委託は、契約自体が継続するかわからない。そして田仲は、「もう私も最後かな、疲れちゃいました」と言った。
影山はデスクのある2階に戻った。途中、医局の前を通りかかると、梼原院長と出くわした。院長はめずらしく「どうした、暗い顔して」と声をかけてきた。
「委託スタッフも、いろいろ抱えてるんですね」
細かい説明は省き、そんな表現をした。
「そうか、契約更新の時期だったな」
院長がそれを知っていたことに、影山は驚いた。
「コストも大事だが、いい仕事をしてもらいたいよな。私が言うと、また無責任と叱られるが」
院長は笑った。
中央病院の経営戦略は、副院長と病棟部長の2人が中核だ。院長の言うことは理想主義すぎて、支障にしかならないと批判する者もいた。
「常駐委託で、今回更新となるのは何がある?」
そう聞かれたので、4つの契約件名を伝えた。すると院長は少し思い出すような表情になった後、おもむろに数字を羅列した。
「9、10、14、15だったかな」
「え、何ですか」
「影山くん、仕事ってのは誰にでもできることばかりだ。誰かがいなくなったら、誰かが代わりをする。だからこそ、自分にしかできないことを見つけたら、それは宝だよ。君だってね」
院長はニヤッと笑って「医療法施行規則の第9条だ」と付け加えると、手を軽く振りながら院長室へと去って行った。
影山は席に戻り、すぐにその条文を調べた。
12月16日は、毎年恒例の患者向けクリスマスコンサートの日だった。夕方になると総務係主導で、事務部総出で外来ホールの長椅子の配置を変え、飾り付けをした。
影山は、今年は委託契約のメンバーたちにも声をかけた。18時になり、患者らに混じって田仲たちはやって来た。下のスタッフも数名いる。
「実は今までも、たまに後ろから見てたんです」
「じゃあ今日は、最後まで見てください。有志によるハンドベルが伝統で、目玉なんですよ」
「でもいいのかね、俺らがこんなぞろぞろと」
それから、言語聴覚士の聖歌独唱で幕が開け、コンサートが始まった。
横に置かれた2メートルほどのツリーにはたくさんのオーナメントが煌いて、患者たちは笑顔で見入ったり、一緒に歌を口ずさんだりしている。看護師やコメディカルなど、観賞に来ている職員も多い。
途中で影山は、4人にそれぞれ小さな封筒を渡した。
中には雪の夜空を駆けるサンタとトナカイが描かれたクリスマスカードが入っていて、そこに医療法施行規則を書いた。9条の9は滅菌について書かれている。10は患者給食、14は洗濯、15は清掃だ。いずれも小難しい内容だが、医療機関にとって必要な措置が記述されていた。
そして最後に影山の言葉で、「いつもお疲れさまです」と付け加えた。
「皆さんも、医療を支えてくれてるんですね」
影山は言った。これで自分の言いたいことが伝わるだろうか。いろんな職種や雇用形態がないまぜなのは、医療もハンドベルも同じだと思った。
「ねえねえ、これって誰の入れ知恵?」
冗談めかして、鈴本が言った。ちょうどコンサートが中盤に差し掛かり、サンタクロース姿の梼原院長が壇上に現れた。
影山はインチキ臭いそのサンタを見ながら、鈴本に「誰でしょうねぇ」と答えた。
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