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第12話「働き蜂のゆくえ」
(人事係 相本幸隆) 2016年3月
3月にもなって大雪が降った日の、翌朝のことだ。職場へ向かうため玄関のドアを開けると、案の定、雪景色だった。
「ああ、積もってんなぁ」
安座富町中央病院の人事課に所属している相本は、職場のすぐそばにワンルームを借りていた。歩けさえすれば交通機関の乱れは無関係だ。
この日いつもよりも早く家を出たのは、患者案内係の当番に当たっていたからだ。案内係は、朝8時から11時まで実に3時間、外来ホールに突っ立って、患者からの問合せに対応しなければならない。
職場に着くと自分のデスクに立ち寄り、腕章を付け、ホールに向かう。立ち位置につくと、いきなり高齢の女性が話しかけてきた。
「聞ける人がいて、良かったわ。貼り紙だらけで、私には何が何だか」
「そうですよね、何でもお尋ねください」
「じゃあ聞きますけど、この病院で、骨密度検査ってやってるの?」
さっそく相本は答えに窮した。知らなかったからだ。人事課の相本は、医事まわりの知識など最低限しかもっていない。外来看護師でもいないかとあたりを見回しているうちに、女性は去っていった。
やれやれ、と思う。本当は、さっさと事務室に戻りたかった。
この日の午後、面接の予定があった。
予定は3人で、いずれも女性だ。職種は医師事務作業補助者である。医師の負担軽減を目的に2008年に診療報酬として新設され、配置される人数に応じて入院料に一定額を加算できるようになった。どこの病院でも採用が進められたのに、ウチは数年は遅れていた。
面接官は、副院長を含む幹部3名だ。相本としては、面接が開始されるまでに、細心の注意を払って準備を終えたいと考えていた。
何気なく時計を見ると、まだ8時半であった。
「相本くん、おはよう」
振り向くと、声をかけてきたのは外来看護師長の小谷だった。
「今日、案内係なの? ぶすっとしてるけど、愛想良くしなきゃダメよ」
まだ26歳の相本から見て、小谷は母親ほど年が離れている。
「師長、車ですか。道は大丈夫でした?」
「怖かったわよ。これじゃ今日の患者数にも響くだろなぁ。そういえばさっき、事務の人たち、みんなでスコップ持って出ていったよ」
知らなかった。雪かきに比べれば、案内係のほうがラクかもしれない。
「あんたね、ラッキーとか思ってんじゃないわよ」
「えっ、いや」
見透かされたようで、相本は焦った。
患者の1人が車椅子を貸してほしいと声を掛けてきたので、小谷が対応した。ホールには自由に使用できる車椅子が、20台ほど並んでいる。
相本は再び、案内役に戻った。
数カ月前の電子カルテ導入に伴って、再来受付機も3台置かれた。以降、その操作説明が患者案内の大部分を占める。医事課からも1名、案内に立つ。今日は倉科という女性スタッフで、委託業者の外来リーダーであった。
「相本さん、受付票を入れるクリアファイルがなくなりそうです」
「あ、はい。わかりました」
間髪入れず、相本は医事課へ走った。倉科はベテラン特有の威厳に満ちていて、どうも苦手だ。請負契約は病院職員との間の指揮命令系統がしばしば問題にされるが、病院職員が委託職員に指揮されるケースは稀有だろう。
情けない気持ちで、相本はファイルを補充した。
その一方、頭の片隅では、面接のことが貼り付いて離れない。こういうときは決まって、かつて就職活動に苦しんでいた頃を思い出す。
もう5年ほど前のことになるだろうか。
県内の私立大学で、相本は環境学部に在籍していた。3年経っても結局この学部が何を勉強する場所かわからないまま、就職活動の時期を迎えた。相本は、我ながら驚くほど貪欲に、アクティブに、節操なく動いたと思う。業種問わず、エントリーシートもOB訪問も面接も、数なら誰にも負けなかっただろう。就職浪人だけはしたくなかった。
だが回を経るたびに、面接官が憎くなった。
「そういう回答する人、他に何人も見たよ」
「ウチの社風って、何をもって言ってるの?」
高圧的に、平然と、鼻で嘲笑いながら、そんな言葉をぶつけられた。意図のある圧迫面接ならまだしも、単なる嫌がらせにしか感じられなかった。新採用が売り手市場だった頃は、何のプライドもなく学生らに媚びを売っていたくせに、情勢が変わればふんぞり返って、もっともらしい言葉で揚げ足取りに終始する。日和見ヤローどもめっ。
そう叫びたかったが、実際は「はあ」「いやあ」などと曖昧に答えるばかりだった。
そんな時期を堪え、何とかたどり着いたのが安座富町中央病院だ。当時付き合っていた彼女に「なんで病院なの?」と聞かれたので、「そんなこと知るか」と相本は答えた。
入社してからは、医療職の人間たちと関わることに疲れたり、労働環境の面で必ずしも恵まれていないと感じることもあった。あれは確か、いつかの納涼祭だ。医事係長の佐々木が、真っ赤な顔で相本に聞いた。
「オマエ、何に憧れて病院なんか選んだの?」
またか、と思った。
「結局サラリーマンだからな、ドラマで事務職員なんか出て来ねえだろ。何かっていやぁ、便利屋みてぇに扱われてよ。ほとんど働き蜂だな」
酔って呂律も怪しいその言葉の中で、自分たちを蜂に例えた一言が、妙に印象に残っている。
だけど、不思議なものだ。
組織のなかで自分がどんな役割で働き、どんなふうに貢献しているのかを実感するときがある。新採用者と配属部署がうまく噛み合ったときや、施設基準によって新たな収益に結びついたときは、何とも心地良い感触が残った。だから相本は、確かに働き蜂だとは思うけれど、時に思いがけず、蜜を見つけてしまうものだとも感じるのだ。
いつしか、例えば面接会場の設営、机とイスの距離感ひとつだって、丁寧にやりたいと考えるようになった。と同時に、幹部連中に対しては、どうか誠実に面接してほしいと願う。
もう一度時計を見ると、9時を回っていた。
「どういうことだよ、それはっ!」
男の大声が聞こえた。見ると、会計窓口で、小柄な中年男性がクレームを付けているようだ。会計担当は、守本という可愛らしい女性だ。
「何で三千円も高くつくんだ。おかしいだろ!」
「受付の際にご説明したと思いますが、その、当院のルールでは――」
「ルールだと。ふざけんなっ!」
まずいなと思い、相本は近づいた。倉科も駆け寄る。医事課からは納見という係員が、カウンターに姿を現した。彼は相本より3年ほど先輩だ。
「初診時の選定療養費の件ですね、説明不足でたいへん申し訳ありません」
納見は説明を始めた。時に申し訳なさそうな表情で、しかし冷静に、穏やかに。相手の男は最初こそ激昂していたが、やがて静かになった。倉科は何も言わず、再来受付機のほうへ戻った。守本も笑顔だ。自分は近づいたものの、ただ黙って見ていただけである。カッコ悪い。
そういえばいつだったか、納見が大学時代に「社会の歯車にはなりたくない」という理由で、就職せずに2年間放浪したという話を聞いた。他方、財務経理課に1年先輩の嶋野という係員がいて、彼は「自分は社会の歯車になれるかが一番心配でした」と呟いた。相本はというと、どちらにも属さず、何となく就職したクチだ。
不意に、先ほどのクレーム男とは別のおっさんが近づいてきて、ニヤニヤしながら「大変だったなぁ」と言った。
「ああいう大騒ぎする輩は、いい迷惑だろ。ウチも商売やってるから、苦労はわかるんだ」
「そ、そうですね」
やばいな、長くなるパターンだ。
「患者も、客だもんな。ウチは食堂だけど、非常識なヤツも多いよ」
「お気持ち、わかります」
話を合わせたつもりだった。
「いや、おたくがそんなこと言っちゃまずいだろ、患者はみんな辛くて来てるんだ。気を付けような」
イラついたが、顔には出さないようにした。そのうちに男は去った。
だが客は誰なのかという視点は、ある意味でとても重要な示唆だ。
先日、幹部会議の決定事項として、今後は日本語としてよほど不自然にならない限り、「患者さま」でなく「患者さん」と呼ぶよう周知された。それまでの過度なサービス意識への反省から出された通達だ。それはいい。だがその後、人事課の客は誰かと人事課長に問われ、答えられなかった。今思えば、それは職員なのかもしれない。
時計を確認すると、もうすぐ10時になるところだ。
何となく気になって、相本は再び面接の段取りを頭に浮かべた。
採用枠は4名だ。他施設でも医師事務作業補助者で男性はあまり見かけないが、もちろん性別は不問である。採用後の研修もあるし、経験は推奨程度なので、じゃあ俺が応募してやろうかと、相本は半分本気で思った。単なる事務のままでいるより、スキルを得られるかもしれない。
今日は3人の女性が、面接のためにこの病院を訪れる。ウチの時給は決して魅力的なものではないが、それでも来てくれる人はいる。もちろん収入を得るためだろう。だがもしもお金以外の、他人には与り知れぬ思いが、それぞれにあるのだとしたら――。診療報酬の獲得のために頭数を欲しがっているなんて、できることなら知られたくはなかった。
そのとき、相本は自分の目を疑った。正面入り口から、一人の婦人が入ってくる。その彼女が、何と犬を連れていたのだ。
「おいおい、嘘だろ」
相本は駆け寄った。赤毛のポメラニアンだ。聴導犬かなとも考えたが、それらしきケープは纏っていない。婦人のほうは真っ赤なコート姿で、下から黒いスカートを覗かせていた。
「あの、すみません、ペットはちょっと」
そう言うと婦人は、驚いたように見返した。
「この寒さよ、車に置いとくわけにはいかないじゃない。可哀想に」
「いや、そう言われましても、やっぱり、衛生上のアレがあるんで」
慌ててしまった。アレって何だ。患者たちがこちらを見ている。倉科も、守本も見ていた。こんなことで注目を集めたくない。
「衛生って言うけど、ウチの子、多分あなたより綺麗よ」
「いや勘弁してください。オウチに置いて、また来てくださいね、はい」
そういうと少し強引に、ここから出て行くよう促した。婦人は不満そうではあったが、特に抗うこともなく出て行った。
「とんでもない人ですね、オオニシさんでしょ」
気付くと倉科が近くにいて、笑っていた。
「私も何度もケンカしてますよ、あの人。まあ単なる非常識さんだからね、悪質じゃないけど」
派手な婦人ではあったけれど、何だか仕種や話し方が伯母に似ているなぁと思った。一年前に亡くなったその伯母は動物好きで、よくノラ猫の面倒を見ていた。相本も幼い頃、猫に紛れて遊んでもらったものだ。
従兄弟の一人が結婚するとき、彼らに伯母が贈った言葉を覚えている。
青春は短く、人生は長い。
これはその伯母の、座右の銘だったのだろう。まだ六十代で亡くなった伯母は、捌けた性格で、粋な人だった。酒もタバコもマージャンも、やりたいことに妥協しない。かなり若いうちに結婚と離婚を経験し、一人で子どもを育て上げたのだから、きっととても強い人だったに違いない。
相本は倉科とともにホールに戻った。床に、診察券が落ちている。
「あ、オオニシさんのですね、これ」
倉科が拾ったので、それを相本は受け取った。間に合うかなと思いながら、正面入り口のほうへ走った。走りながら、時計を見る。
ようやく、11時だ。
これで、この不毛な時間も終わる。
外に出て辺りを見回すが、オオニシの姿はなかった。もう、雪も、雨も、降ってはいない。植え込みに降り積もった綺麗な雪ばかりでなく、駐車場の端に積み上げられた汚れた雪の塊ですら、太陽の光でキラキラと輝いていた。相本は、思わず見入った。いつも見ている景色とは、まるで違う。
この3時間が、本当に不毛だったかはわからない。もしかしたら、自分の席でデスクワークをしているよりは、むしろ良かったかもしれない。
相本は、その景色をしばらく見つめた。午後になったら、面接だ。だけど、自分が受けるわけではない。面接官ですらない。
もう一度、3人の履歴書を読み込んでおこう。
相本は案内係の腕章を外すと、自分のデスクへと走った。
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