第13話「職種の渦」

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第13話「職種の渦」

(人事課長 久間田修(くまだおさむ)) 2016年3月  離婚が成立したのは、協議が始まって数カ月後のことである。  実に27年間連れ添った妻だったが、何年も何年もすれ違い続け、それにも慣れてしまった挙句のことだ。お互い手続きに割くエネルギーすら失っていたのに、夫婦が揃って55の齢を迎えると同時に一人息子が大学を卒業し、就職を決めて家を出て行くと、状況は否応なく変わった。  終わってしまえば、すべてが虚しい。一時は憎しみすら覚えた妻の存在も、失くしてみると、悲しく心臓をえぐる。離婚届のイメージはちゃんとできていたが、離婚協議書を公正証書にしたとき、頭の理解とは別に、何故だか深く傷ついた。  離婚以降、久間田は、余計なことを考えぬようなるべく仕事に集中してきた。元県立の総合病院である安座富町(あざとみちょう)中央病院において、人事課長のポストは決して閑職ではない。  仕事といえば、ようやく動き出した案件がある。  医師事務作業補助者という制度が新設されたのは2008年のことだが、中央病院ではおよそ8年もの間、導入に二の足を踏んでいた。医師の事務的負担を軽減する主旨であり、迷う理由が見当たらない。  決断の遅れは院長にあった。自分でカルテも書けない医者が増える、というのがその理由だ。  それだけではない。例えば電子カルテの導入も、同規模病院に比べて圧倒的に遅かった。 「パソコンばかり見て患者の顔を見なくなったら、もう医療じゃない」  これが院長の言い分だ。最高責任者のこのは中央病院そのものの色味にもなっていたが、導入が遅れた一番の要因である。 「病院経営は生き物だ。ついていけなければ、取り残されて破綻する」  こちらは副院長。そういった発言を、久間田は幹部会議等でよく耳にした。戦略的な経営を指揮するのは、いつだって副院長だった。  しかしこれだけ考え方が違うのに、二人は絶妙なバランスで舵を取っていた。事務長などはもう達観したようで、笑いながら二人をそう評する。  久間田は、必ずしも笑えなかった。電子カルテはともかく、少なくとも「人」に関しては、もっとセンシティブになってほしいと思う。  そうして3月のある日、人事課ではいよいよその面接を予定していた。季節外れの大雪が降った、翌日のことである。  今回、最終的な採用枠は、4名である。今日の面接が3名であるため、仮に全員決まったとしても、募集は続く。  経営的には、新たな診療報酬の獲得に向けて、まずは最も低い基準の「100対1補助体制加算」を目指していた。中央病院は一般病床が250床であるため、常勤換算で2.5人、非常勤では少なくとも4名が必要になる。  もちろん最も低い基準で診療報酬を獲得しても、入院初日に1000円ちょっと加算できるようになるだけで、この病院の患者数では人件費をペイするのはむずかしい。だから人数の確保と合わせて重要になるのが、実際に医師の負担軽減につながるかという点だ。 「経験者がいいよな、即戦力」  募集の話が持ち上がったとき、久間田は人事係の相本に言った。 「イシジムの経験者ってことですか?」  院内では医師事務作業補助者の呼称が決まっておらず、現時点ではこう呼んでいた。他の病院に聞いてもバラバラで、ドクターアシスタントだとか、メディカルクラークだとか、あるいはそのまま「イシジムさん」と呼んでいるところもあった。 「イシジムの経験がなくても、医療事務や医局秘書の経験があれば医療用語も分かるだろうし、仕事としては取っ付きやすいだろ」 「そうですね、じゃあ募集要項には経験や資格を入れますか」 「いや、推奨にしておこう。来てくれなきゃ意味ないからな」  とにかく4月に向けて、人を揃えることが最優先だ。  それに、採用となってから知識や経験を積む機会も用意されている。一定時間以上の研修が、診療報酬の要件とされているのだ。  そのカリキュラムを組むことは、人事課の、喫緊の課題であった。  外部へ講師派遣を依頼すると新たに謝金費用が嵩むため、院内研修が求められる。中央病院の母体である橘橙会(きっとうかい)本部でも標準研修を実施しているので、それを活用しつつ、医者や薬剤師などから院内講師を確保するしかないだろう。  そんな課題を残しながら、今日、第1回目の面接の日を迎えた。 「あれ、相本は?」  久間田はさっきから姿が見えないことに気付き、近くを通りかかった電話交換の宮島に聞いた。 「見てませんよ。あれ、今日はインフォメーションじゃなかったかな」 「ああ、そっか」  事務職員は当番制で、午前8時から11時までの間、外来ホールで案内係を務める。面接の打合せは、相本が戻ってからにすることにした。 「久間田さん、時間ある?」  総務課長の野村が、声をかけてきた。 「今から雪かきに行くけど、一緒に行けますか」  断るわけにもいかないので、久間田も席を立った。地下の更衣室に寄って、カーキ色の作業着に着替える。  人事課は今、人員が手薄だった。  人事係長の小菅(こすげ)が、心の病気で長期療養中だ。だから自然と相本に業務の指示をする機会が増えた。その相本がこないだ、口を尖らせて不満を漏らしていたことを思い出した。 「業務()み分け委員会? 何すか、それ」 「なぜかウチが仕切りで発足したんだ。電カル導入以降、あちこちで業務フローが変わって、うまく流れないことが増えたらしいからな」  中央病院ではすでに、看護部の負担軽減のため、病棟や外来にクラークが派遣契約で配置されていた。各病棟の看護助手は、非常勤での配置だ。帳票や検体を運搬するメッセンジャーは委託契約で、医療事務の約30名も同様である。さらに医局秘書が、常勤で1名勤務していた。 「それに加えて、一昨年、診療情報管理士も採用しただろ。副院長が言われるように、事務サイドだってどんどん変わっていくよな」 「俺も身の振り方、考えようかな」  相本は軽口を叩いた。  診療情報管理士はカルテの専門家で、電子カルテやDPC導入に向けて数名が採用される予定だった。しかしDPCは、院長判断で事実上ストップした。DPC方式は病名単位の包括点数を導入することで、出来高方式よりも医療の無駄を減らせるメリットが評価されているが、院長は無駄と一緒に必要なものまで削減されていくことを懸念しているらしかった。結局、診療情報管理士は1名だけの採用となった。  そして今回ようやく、イシジムの非常勤採用に乗り出した。今でも文書やオーダーの流れが非効率なのに、イシジムが加われば、業務の棲み分けがどれほど重要になるかは容易に想像できる。逆に言えば、うまく整理すれば生産性向上というポテンシャルも秘めているのだ。  こうしたときに、我々は常にのなかで働いているのだと気付かされる。そしてイシジム募集の話が持ち上がると同時に、不定期開催で、業務棲み分け委員会という組織が発足した。 「だけどこれ、人事課の仕事ですか。部署間で話し合うしかないような気がしますけど」  相本の不満はその一点にあるようだ。 「まあ、仕方ないだろ。俺がやるんだし、医事も総務も関わるんだから、ヘソを曲げるなよ」 「課長は人が良いからなぁ」  相本はおそらく、自分の業務が増えることを恐れたわけではない。小菅の不在で、久間田が業務の一部を担ったが、係員の立場ではフォローできないことが多く、そのジレンマから苛立っているようだった。実際には厚生係長も業務を引き受けてくれていて、久間田の負担はそこまで過重ではない。 「荏田さんなんか、そんな委員会には絶対出ないって怒ってましたよ」 「はは、あの人らしいな」  荏田とはベテランのソーシャルワーカーで、この病院での職歴は課長連中よりも長い。仕事の質にも実績にもプライドはあるだろうし、棲み分けなんて話でいい気持ちがしないのは当然だ。  山積する課題を頭に浮かべ、久間田は憂鬱な気持ちでスコップを手に取った。外に出ると、空は晴れつつあり、ひんやりとした空気に肌が触れた。とりあえず、駐車場だけでも雪を撥ねなければならない。  久間田は精を出して、スコップを振るい始めた。  ――時期が悪いんだよな。  作業を始めても、心のなかでは愚痴がついて出た。  イシジムの時給は、1090円で広告を出している。他の病院では1300円を出しているところもあるが、中央病院では最初からいきなりそこまでは出せなかった。今のところ業務内容や業務量については見えない部分も多いので、これが高いか安いかもわからない。  だが来月に迫り来る診療報酬改定を契機に、大学病院もさらなるイシジムの確保に乗り出すことが見込まれていた。県内には二つの大学病院があるが、いずれも、数十人単位で採用するだろうという噂が流れている。入退院サポートセンターという新たな枠組みも流行り始めていて、これからイシジムは需給が逼迫するに違いない。他の民間病院では、引き抜きを本気で恐れているところもあるそうだ。  遅きに失するとは、まさにこのことだ。  ぶつぶつと独り言を口にしながら、久間田は一時間ほど身体を酷使し続けたが、ついに足腰に限界を感じたので、一足先に事務室へと戻った。  相本の姿は、まだない。  それにしても、ここのところ久間田は、彼の成長を強く感じる機会が多くなっていた。特に小菅が病休となってから、それは顕著だ。  人懐っこく物怖じもしないが、お調子者で仕事は雑――。おそらく彼と業務上で関わりの少ない者たちは、ほとんどがそういった評価をしていただろう。いや、久間田でさえそうだった。  だが、彼を見る目を変えてくれた人間がいる。  それは財務経理課の嶋野という係員だった。彼は相本の一年先輩だったが、相本とは正反対の性格で、コミュニケーション能力はほとんど皆無に近く、愛想どころか挨拶すらままならない男だ。一方で、仕事への取り組み方は誰よりも真摯で、目を見張るものがあった。  ある朝のこと、駐車場から通用口までの道々で、彼と一緒になった。久間田が天気の話題など思案していると、嶋野が先に口を開いた。 「小菅さんを、相本はよくフォローしていると思う」  このときはまだ小菅が病休に入る前で、休みがちになり始めた頃だ。嶋野の言葉に、久間田は、はっとした。  小菅不在となった後の人事課の体制を考えるなかで、相本を不安要素と決め付けている自分に、気がついたのだ。だが考えてみれば、小菅の業務の一部を、彼はすでに引き受けていた。人事課には人事係にも厚生係にも非常勤職員が数名いたが、重要な業務については相本が自ら頻繁に小菅に質問し、いつか来るその時に備えていたように思う。 「よく見てるな」  久間田はそう答えた。同じフロアとはいえ、財務経理課と人事課は席も離れていて、接点は少ない。嶋野は特に何も返事はせず、俯いた。  不思議なものである。これだけタイプの異なる二人なのに、嶋野は相本の姿を見抜いていた。何とも情けない気持ちになる。それがちょうど離婚が成立した頃だったから、なおさらだった。  そんなことを思い出したからか、あるいは雪かきの疲れか、久間田は自分のデスクで、何をするともなく呆けていた。 「課長、準備を始めましょう!」  相本に声をかけられ、久間田ははっとした。彼はいつの間にか案内係の務めを終え、戻ってきていた。そうだ、午後には面接が始まる。 「3月いっぱいで何とか決めたいですね」  面接会場の会議テーブルを準備しながら、相本は言った。  久間田は過去にいくつもの職場を見てきたが、そのどれと比較しても、今の中央病院は係員に恵まれていると感じるようになった。  もちろんここの連中だって未熟で粗削り、個性ばかり強くて、何といっても無遠慮だ。だが彼らは着実に育っていて、きっと今自分が倒れてしまっても、病院はかすり傷を負う程度だろう。少し寂しい気もするが、組織としては健全だ。   「課長、腰が痛いなら無理しないでください。倒れられたら困る」  相本が嘲笑ったので、久間田はむっとした。せっかく達観しかけたのに、水を差しやがった。  久間田は不要な折りたたみチェアを三脚かつぐと、「うおお」と叫んで部屋を出た。
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