第14話「取り立て屋の苦悩」

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第14話「取り立て屋の苦悩」

(財務係 嶋野敏二(しまのとしじ)) 2016年4月  午後一番、嶋野は、職員駐車場にいた。  春の陽差しが眩しい。元々、人付き合いは病的なほど苦手だが、環境が変わる春は特に憂鬱だ。  嶋野は安座富町(あざとみちょう)中央病院の財務係で、担当は現金の出納管理と、収益全般の管理業務だ。なかでも不良債権の回収は、財務係の常なる課題だった。  これから向かう出張督促は、簡単に言えば借金のである。公用車であるシルバーのウィングロードに乗り込むと、車を発進させた。救急車両専用口側の無人ゲートから、一般道へと出た。  今日は3件回るつもりだが、どれも回収見込みは薄い。  1人目は、ネダタカユキ、38歳。住所は安座富町金森129-6となっているが、2年前の記録だ。もう電話はつながらないし、督促状にも無反応。連帯保証人どころか家族情報もなし。  ネダ氏の債務は4年前、左手外傷の外来で15万円ほど発生した。夜間の救急患者で、保険証も提示せず帰った。それから2年後、急性副鼻腔炎でさらに3万円。このとき医事課から連絡を受けたのは上司の小田切係長だったが、簡単な面談だけでそのまま帰してしまったらしい。 「係長、どうして帰しちゃったんですかっ!」 「だって、金はねえって言うんだもん」 「そこを何とかするのが僕らの――」  そこで諦めた。彼は院内でも有名な怠け者だ。話すだけ無駄だと思った。  2回の右折で、町道七号に出た。長閑な道で、近くにはサクランボの果樹園がある。そこですずめの群れを見かけ、嶋野は見入った。幼い頃、はぐれたすずめを家で保護したことがあった。  やがて曾孫川(ひこがわ)が見えてきた。ここからは歩いて探すしかないと覚悟したが、ネダの表札のある家屋が、意外とあっさり見つかった。蔵まで備えた広い敷地だが、壁も屋根も寂れている。  嶋野はインターホンを鳴らした。返事がないので、「ネダさーん!」と大声を出すが、それでも返事はない。そっと郵便受けを開けると中には郵便物が積み上がっていて、日本年金機構からのハガキで、ネダ氏の名が確認できた。  念のため、自分のケータイからネダ氏の番号にかけてみた。専用ケータイの貸与を小田切に要請しているが、話はそこで止まっている。  電話はやはりつながらなかった。以前一度だけ話せたときの、ネダ氏の激昂ぶりを思い出した。 「な、何でそんな金払わなきゃなんねえんだよ!」 「治療を受けられたのは間違いないですよね?」 「金はねえって最初に言ったぞ! それに左手だって今も痛むし、医療ミスじゃねえのかよ!」  ムチャクチャだ。 「病院だったら、患者が痛がってたら、金なんか関係なく助けるのが義務だろっ!」  思い出すだけでも不愉快である。  嶋野は封筒に督促状を入れ、郵便受けに入れた。顧問弁護士の名も入っていて、文中には「法的措置も辞さない」とある。支払督促制度は小田切の業務だが、例によって、発動はされない。  嶋野は、元来た道を車まで戻った。  次は、コバシユタカ、23歳。漆目町(うるしめちょう)松の原22-5、リバーサイド松の原B105。義理の母親が連帯保証人になっているが、生計は同じだ。交通事故で加害者不明、やがてコバシ氏も音信不通となった。未収額は50万円を超える。  厄介な案件である。ひき逃げなので自賠責は使えず、勤務中でないから労災にもならない。第三者行為でも手続きをすれば保険証は使えるが、事故当時、コバシ氏はその手続きをしなかった。政府保障事業など論外だ。  車を走らせると、風が心地よく流れ込んだ。漆目町は安座富町のすぐ南で、懐かしい田園風景が広がる。収穫期、嶋野は黄金の草原を見るために、一人でこの町を訪れたことがあった。  嶋野は、いつだって一人だ。  ――もうちょっとみんなと話さないとなぁ。  不意に、いつか小田切に言われた言葉を思い出した。職場の連中が嫌いなのかと聞かれたこともあったが、そんなことはないと答えた。  今の事務部は、かつてないほどしっかりと輪ができていて、課を越えて風通しがいい。だが数カ月前、人事係長の小菅(こすげ)が、心を病んで長期療養に入った。いつも嶋野のことを気にかけてくれた、不器用だが気のいい先輩だ。この職場で小菅が何に苦しんだか、嶋野にはわかる気がする。輪ができるということは、同時に、もできるということだ。  嶋野は、ある女の顔を思い浮かべた。  総務課の出雲亜美。嶋野と同い年で、職歴は彼女が少し先輩だ。事務部全体のムードメーカーで、何でも明るく活発に突き進む。本当は嶋野にとって疎ましい存在でしかないはずなのに、こんな自分にも元気に「おはよう!」と言ってくれるので、それを聞くのは密かな楽しみだった。  コバシ氏のアパートの付近まで来た。2階建ての建物群は、全体が薄いブルーだ。B棟の1階がコバシ氏の部屋だった。  インターホンを鳴らすが、無反応だった。ノックしても、声がけをしても返事はない。ここでも念のため、電話してみることにした。  まずはコバシ氏本人の番号。以前と同様に「データ通信専用」というメッセージが流れた。次は母親だ。カオラアデ・バノラエンという名で、東南アジア人らしい。4回目のコールで、思いがけず「はい」と女性の声がした。 「えっと、カオラアデさんでしょうか。中央病院の嶋野と申します。今、お電話、大丈夫ですか」 「病院…。あ、電話ダイジョブです」  嶋野はホッとした。本人らしく、しかも話を聞いてくれそうだった。嶋野がまず概要を話すと、何だか沈んだ声になった。彼女は、コバシ氏のアパートを出て、近所に引っ越したらしい。 「今、少しだけ会えませんか」  彼女は電話から遠ざかり、誰かに何かを確認しているようだった。それから、サニー・ダンの駐車場で良いか聞かれた。近くの衣料品店らしい。 「じゃあ10分後に、そこで」  嶋野は車を走らせ、一番外側の端に停めた。  やがて、それと思われる女性が姿を見せた。グリーンのセーターにジーンズ姿で、恰幅がいい。 「カオラアデさんでしょうか」 「あ、そうです。病院の人ですか」  良かった、本人だ。嶋野は名刺を差し出した。立ち話は気が引けたが、仕方がない。  聞くと、彼女は知人の飲食店を手伝っているが、生活は苦しいという。夫とは別居状態で義理の息子とも疎遠になったのに、診療費の債務だけは負ってしまったという。気の毒だが、話は進めなければならない。 「少しずつでもいいので、お願いできませんか」 「私、5千円も苦しい。でも、がんばれます」  5千円―― 少ない。完済に10年近くかかる。だが無理をさせても、継続しなければ意味がない。 「では、返済計画を作りますので、捺印をお願いします。あと、今日はいくらか支払えますか」 「今日、ちょとむずかしいです、でも1万円なら」  今は十分だと思い、嶋野は領収書と支払確約書の準備をした。確約書は複写で、支払計画を書き込み、それから1万円を確かに領収した。 「突然、すみませんでした。感謝します」  嶋野は、カオラアデ氏に一礼して別れた。  この業務をしていると、やりきれなくなることがある。苦しい生活のなかで一生懸命支払おうとする人もいれば、うまいこと逃げ果せて百万以上の債務を踏み倒すヤツもいるのだ。中央病院の未収金は、累積で数千万円にもなる。  病院の実態を知らない人にこの話をすると、だいたいは無保険の外国人をイメージするが、実際はそうじゃない。地域性もあるが、中央病院の不良債権は、そのほとんどが日本人だ。  嶋野は次の住所を頭にセットした。陽がだいぶ傾いてきている。名前はミヤタヒデコ。69歳で、漆目町椿田54-4、県営住宅だ。車で20分ほどの距離にある。  ミヤタ氏は一人暮らしで、船橋に住む一人息子が連帯保証人だ。化学療法のために1年ほど通院してから、病院を変えたのか、今は来ていない。債務は外来の限度額認定証制度が始まる前のもので、一部、国保の貸付制度を利用している。自己負担分は月に最低でも2万円は支払うという約束だったが、30万くらい残して滞った。  もう一度、川沿いの道に出る。そのうちに、ミヤタ氏の住む県営住宅群が見えてきた。ポンプ所と変電所に隣接するその敷地内には、四階ほどの古びた建物が立ち並んでいた。  ミヤタ氏の部屋は3号棟の3階だ。インターホンを鳴らす。やがて「どちらさん?」と顔を見せたのは、男だった。50代後半というところか。息子ではないだろう。 「あの、安座富町中央病院の嶋野と申します。突然、申し訳ありません。ミヤタさんでしょうか」 「病院か、こないだは世話になったな。わざわざ何の用だよ。ヒデコならいないぞ」 「あの、失礼ですが、ご関係は……」 「勝手に人の家に来て、失礼な野郎だな」  嶋野は少し迷ったが、用件を話すことにした。少なくとも他人ではあるまい。 「ヒデコさんの診療費の件です。実は、まだお支払いいただいていない分があります」  そこまで話すと、男の表情が変わった。目が血走って吊り上がり、何とも恐ろしい表情だ。 「その話は、荏田という女も知っているのか?」 「え、ええと、はい、それはそうです」  荏田の名が出るとは思わなかった。彼女はベテランのソーシャルワーカーだ。 「嘘をつくな。お前とは話にならない。帰れ!」  一喝され、嶋野は萎縮した。継ぐべき言葉が見つからない。「すみませんっ」と言って逃げるように階段を下り、車に乗り込んだ。  気付くと、空は随分と暗い。ケータイで中央病院をコールすると事務当直室につながり、溝口という委託職員が出た。小田切が話し中だったので、経理係長の篠田に、これから戻る旨を伝えた。  漆目町から安座富町に入り、それから曾孫川を渡る。ひとつ道を逸れ、桜通りと呼ばれる道に出た。桜は咲いてはいたが、街灯や店の灯りに照らされ、何だか青褪めて見えた。  病院に着き、駐車場に車を停めると、嶋野は2階へと戻った。まだ多くの職員がいる。 「遅れて申し訳ありません、今帰りました」  財務経理課長の田宮に、嶋野は言った。めずらしく居残っている小田切が、ちらりとこちらを見た。 「おい、お前、状況わかってるか?」  田宮は怒りを抑えた声で嶋野を詰問した。彼はキレやすく、月に1回は爆発することで有名だ。 「すみません、帰りが遅れました」 「そうじゃねえ! お前、ミヤタ何とかって患者の家に押しかけただろ!」  大声を出され、嶋野は思わず目を瞑った。 「ミヤタヒデコさん、はい、督促に行きました」 「荏田さんと医事の佐々木が、ついこないだ、支払い計画について話をまとめたところだ」 「えっ!」 「聞いてなかったか? だがお前から確認すればいいことだ。督促は計画を立てるのも実行するのも、本来一人でやることじゃないだろう!」 「で、でも、事前決裁はもらっています」  出張督促に行く際には、事前に内容を取りまとめ、関係者の決裁をもらっている。医事係長の佐々木も、小田切も、田宮も、見ているはずだ。 「書面でまわってきても、内容なんかろくに見ちゃいねえだろ。督促みたいにデリケートな話は、関係者に直接聞いてから行けよ!」  田宮は自分のデスクを平手でバンと叩いた。事務室内の視線がこちらに一斉に注がれる。そのなかには、出雲亜美もいた。 「もういい、これから気をつけろ。それから、小田切に礼を言っとけよ。クレームはあいつが対応したんだぞ」 「――本当ですか」  ある意味で、最も聞きたくない事実だった。嶋野はいつだって小田切に振り回されてきたし、小田切の分まで仕事をしているという自負がある。  嶋野は田宮の前を去ると、すぐに小田切の元には行かず、自分のデスクに戻った。領収した現金や領収書の控えなどを、早々に整理しておきたかった。今さら小田切に、何を言えというのか。 「嶋野」  気付くと小田切が、嶋野のところまで来ていた。 「悪かったな、俺のせいでトバッチリ受けて」 「え……」 「俺は、支払の合意ができたことを知ってたのに、お前に言うのを忘れてた。決裁も、ほとんど中身を見てないまんま、ハンコぽんっ」  小田切は笑った。 「嶋野がいつも頑張ってくれるから、ウチの不良債権はある程度は抑えられてるし、俺もラクができてる――なんて言ったら、調子良すぎか」  小田切は平然と言う。そのとおり、あまりにも調子良すぎだ。だけど、言葉を発することはできなくて、嶋野は口ごもった。  それからほどなくして、小田切は「お疲れ」と言って帰った。嶋野も、数分後に事務室を出た。  部屋にはまだ、総務課も人事課も人が残っていた。春はいつだって、誰もが忙しい。そしてきっと誰もが、言葉にできない何かを抱えて、残業をしているのだ。  ある休日、あの桜通りにも行ってみた。  もう花びらはとうに散っていて、葉桜がさざめいている。その樹々の中に、数羽のすずめたちが群れているのを見つけた。  太陽が眩しくて、目を細める。  正面の空に立ちはだかるその雲は、夏の形をしていた。
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