第15話「鉄の女」

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第15話「鉄の女」

(診療情報管理士 武藤紗苗(むとうさなえ)) 2015年8月  騙された、というのが最初の印象だった。  入社後一年半を経過した今でも、思い返すと少し腹が立つ。  武藤が採用試験を受けた2014年の5月、安座富町(あざとみちょう)中央病院は確かに、DPC準備病院だった。武藤は以前の勤め先で数年、DPC業務に従事したが、導入は未経験なので転職を決めた。  DPCとは病名や診療内容の包括評価方式を指し、これに基づいて入院料を計算することで過剰診療を抑制するのが主旨となっている。国にも医療機関にも患者にも、コストメリットをもたらし得る。  だが入職後数ヶ月で、中央病院は辞退してしまった。それも出来高方式と精密に比較した上での経営判断ではなく、必要な診療行為まで削られることを危惧した、梼原(ゆすはら)院長ならではの判断だった。 「それでも、武藤さんの力は必ず必要になるよ」  辞退と聞いて唖然とする武藤に対し、釘を刺したのは医事課長の浅利だ。 「来年度、ウチでは電子カルテを導入する」 「聞いています」  中央病院は電子カルテどころかオーダリングシステムも未導入で、部署間のやり取りはすべて紙の伝票だった。IT化は最優先課題だという。 「その準備で医事課は忙殺されるが、診療情報管理士がいるといないとでは、業務効率が大違いだよ。武藤さんの経験にもなるでしょう?」 「まさか電カルも白紙に戻ったりしませんよね」  皮肉を言うと、浅利は苦笑した。  結果的に、武藤はここに留まった。  中央病院にとっては初めての管理士であり、カルテの専門家という視点そのものが、ここにはなかった。DPCは辞退しても、病名や退院サマリのチェック、がん登録に至るまで、やるべきことはたくさんある。加えて、電カル導入の準備は膨大だ。武藤は医事係長の佐々木や係員の納見(のうみ)らと手分けして、業務に当たっていた。  そんなときに、何かとまとわりつく男がいた。 「管理士ってやっぱりカッコいいですね、医者とも対等に渡り合って」  物品調達係の城戸(きど)である。彼は武藤より一ヶ月早く採用となった新卒の若者で、十歳も年下だ。かつて診療情報管理士を目指していたこともあるようで、武藤の仕事にいろいろと興味を示した。 「僕の仕事なんて、ただの使いっぱしりですよ」 「自分の仕事を卑下するのが癖だね。うだうだ愚痴言ってるうちは、成長しないよ」 「武藤さんって、正論ばかり言うよなぁ……」  そうして、彼は落ち込んで見せる。だがしばらくするとまた寄って来るのだから、要するに甘えたいのだろうと思った。  だがその「正論ばかり」という指摘は、院内での武藤に対する一般的な評価だったように思う。  よく晴れた夏の日のことだ。電カル導入を二ヶ月後に控え、病院全体が妙な熱気と緊張を帯びていた。医事係員はほぼ毎日、日付が変わるまで職場にいて、目の下の隈はひどく、やつれていた。  武藤のデスクは医事課の端で、浅利課長の斜向かいである。正面には佐々木が座っていて、医事業務委託の外来リーダーである倉科(くらしな)が、その佐々木に話しかけた。 「マルアクの表記、そのままだったんですよ」 「ああ、例の診療明細書の件かぁ」  武藤は何気なく、聞き耳を立てた。  診療明細書は領収書とともに患者へ交付するもので、2010年の診療報酬改定で義務化された。診療の透明化が目的で、領収書よりも詳しく診療内容がわかる。武藤は今の会話を聞いて、すぐにぴんと来た。経験があったからだ。 「悪性腫瘍特異物質治療管理料のこと?」  横から口を挟んだ。 「そうなんです。今も『悪性腫瘍』の文字が出ないように設定されていて……」 「マズいよ、それ」  武藤が言うと、佐々木は眉間に皺を寄せた。  患者に渡す明細書には病名の記載はないが、いくつかの算定項目に悪性腫瘍という文字が入っており、告知を受けていない患者が自分の病名を知ってしまう可能性があった。だからこのルールができた当時、医事会計システムの設定を変更し、その部分を印字しない病院が少なからずあった。 「電カル導入を機に、そこの設定も戻したほうがいいんじゃないかって、係長に相談してたんです」 「だけど今現在だって、すべてのがん患者に告知しているという保証がない」  佐々木が乗り気でないのはすぐにわかった。一度倉科と目を合わせてから、武藤が言う。 「係長。院内掲示でも、窓口での説明でも、明細書を受け取らない選択肢は伝えていますよ。知らされない権利は、担保されてるはずです」 「告知を受けていない患者が、どうやって、受け取らないほうがいいという判断をするんだよ」 「それは屁理屈。制度の主旨が透明化なんだから、印字レベルでの病名隠しは良くありません」 「杓子定規なこと言うなぁ。それにこれは、診療情報管理士の範疇じゃないだろ」 「だったらなおさら、係長がやってください」  佐々木はムッとした様子で、黙り込んだ。  こんなことが続き、いつしか武藤は、融通の利かない面倒なヤツと認識されるようになった。公然と「鉄の女」と揶揄する者までいた。  それでも別にかまわない。友達を作りに職場に来ているわけではないし、能書きばかりでまったく成長しない人間を、武藤は見下してすらいた。  だけど、ひとつだけ、耐えられないことがある。  なぜだろうか。仕事に徹しようとすればするほど、私は父親に似ていると実感するのだ。  長く肺癌を患っていた母がついに亡くなったのは、武藤が17歳のときだった。母は、病院でひっそりと最期を迎えた。父も娘も看取ることができなかったのは、病院から連絡を受けた父が、仕事を切り上げるのに二時間を費やしたからだ。そして娘にも、学校にも、連絡は事後になった。  父は仕事人間ではあったけれど、特別冷たい人ではなかった。だから余計に、武藤は傷ついた。最期にもう一度、母の顔が見たかったし、目を合わせて言葉を交わしたかった。何度も何度も母に謝る夢を見ては、泣きながら目を覚ました。  武藤の就職とほぼ同時に東京へ転勤した父とは、それから数年間、会っていなかった。昨年この町に戻ったと聞いて、一度食事をしたが、会話らしい会話にはならなかった。  あるとき事情を知る友人の一人に、もう父を許してやれと、少し責められた。だが、武藤にはそれができなかった。  今年65の齢を迎えた父は、今も現役で働いている。この歳になっても、仕事が生きがいなのだろうか。最期に母の顔を見られなかったことを、悔やむことはないのだろうか。  仕事上で武藤の心にもしも迷いがあるとしたら、ただその一点だけだったように思う。  九月に入って、今度は地域医療連携室とぶつかった。  医事課には、医事係のほかに「室」という扱いの部署が三つある。地域医療連携室はその一つだ。DPCが実現すれば、ここに診療情報管理室という四つ目の室が発足するはずだったが、今は医事係員というポジションに甘んじている。  地域医療連携室にはケースワーカーや看護師が在籍していて、室長は病棟部長の志田というベテランの医師だ。事務職員は連携係長と係員の二名で、係員は名を青野といった。  その日、青野が医事係の納見の元を訪れた。 「今日の委員会で、初診料の算定基準を変えて以降の収支状況を知りたいと、話が出たんだ」 「収支ですか」  青野は納見よりも少し先輩だ。早くに結婚していて、確か小学生の男の子がいる。 「初診料の基準の変更って、何ですか?」  気になったので、武藤は話に割り込んだ。 「ウチは以前、6ヶ月ルールだったんですよ。半年再診がなかったら、初診扱いにするという基準です。もちろん単なる風邪などは例外ですが」  納見の説明に、青野も頷く。 「元々は、半年後のフォロー診察が一般的にあり得るからそうしていたんだと思いますが、それを去年の初め――、あれは武藤さんが来られる直前かな、連携室からの提言で、13ヶ月ルールに変更しました。科によっては1年後のフォローもあり得るから、という理由です」 「一応確認なんだけど、初診料の本来の算定基準は、わかってますよね」  武藤が切り返したため、少し間が空いた。 「科を問わず、一度付けられた全病名に転帰の記載があってからの再来の場合…、でしたよね」 「そうです。病名が一度キレイになった後ということですね」 「あれ、そうすると、6ヶ月とか13ヶ月ってのはどういうこと?」  青野が聞いた。聞いてるのはこっちだろう。  だが答えもわかっている。  実務では、窓口で便宜的に期間ルールを設けることはよくある。診療費を算定する際に、いちいちカルテを見ていられないからだ。その点を納見が青野に説明すると、彼はなるほどと言った。 「でも青野さん、どうして期間を拡大したんですか? 初診料のほうが高いのに」  武藤は聞いた。  初診料は再診の場合の点数より高く設定されている。おまけに紹介状がない場合、中央病院では選定療養費として3240円ももらっているのだから、その分だけ確実に減収だ。 「簡単に言えば、紹介率を上げて、地域医療支援病院になるためだよ」  青野の説明に、武藤は合点がいった。  要件を満たして地域医療支援病院になれば、入院費に一定額を加算できる。そして施設基準の要件のなかでも、他の医療機関からどれだけの紹介を受けるかを示す「紹介率」は、最も重要だった。 「紹介率の計算式の分母が初診患者数だから、それを減らそうと考えたわけか」 「さすが、察しがいいね。来年度からウチでこれが実現できれば、月に数百万程度の増収になる。初診料や選定療養費の多少の減収は、簡単にペイする見込みだよ」  武藤は呆れた。厚労省の意図とはまったくマッチしない、小手先のテクニックだ。施設基準の要件は紹介率以外にもいろいろあるので、地域医療連携室としては、今年度中の実現に向けて尽力しているというわけだ。  それはいい。聞きたいことは別にあった。 「ところで、カルテへの病名記載は大丈夫ですか」  武藤は、二人の顔を交互に見ながら言った。 「さっきも言ったように、初診料を算定するには病名と転帰の裏付けが必要です。特には、重要な根拠ですよ。13ヶ月ルールに変えた段階で、そこは徹底されていますか?」 「だ、だけど医者のカルテ記載は、この変更があろうがなかろうが、元々当然のことだろ?」 「……じゃあこの話は、その検討なしで進められたんですか?」  青野は答えに窮した。代わりに納見が答える。 「僕も佐々木係長も、カルテのチェックはしていません。それは、武藤さんの仕事ですよね」 「もちろん、そうです。その時に私がいたなら、もっとちゃんと整理していましたよ。どっちにしても電カル導入が目前ですから、初診料の算定基準はもう一度考え直したほうがいいんじゃないですか。だって電カルになれば、算定担当者がんですから」 「僕は個別判断でもいいんですが、リアルタイムで病名が記載されていることが前提になりますよ。武藤さん、外来にそこまで責任もてますか?」 「待ってくれ、個別判断は困る」  納見の言葉に、慌てたのは青野だ。責任という納見の指摘には、武藤も少し怯んだ。だがいずれにせよ、稚拙な議論に思えた。DPC病院では、病名は何より重要だ。この病院でもデータ提出加算の算定要件クリアを目指してはいるが、結局のところ病院自体にその意識が根付いていない。  前の職場を思い出す。  DPCでは診断群分類を決める際、入院患者ごとに最も医療資源を費やした病名を一つ、ICDコードと呼ばれる国際基準から選択するのだが、病名で収益も大きく変わるため、適切な病名は何か、医師とは議論することも多かった。  思えば「鉄の女」はあの頃からだったかもしれない。だが、それも仕方がない。仕事のやり方も、生き方も、今さら変えるなんてできないのだ。  コードC343の該当患者を見つけると、今も少し心が痛む。母は、下葉肺腺癌で死んだ。  秋の彼岸に、母の墓参りをした。  墓前に立つと、花が供えられていることに気がついた。まだ鮮やかな色をしており、ガーベラの花には保護セロファンが付けられたままだ。  何となく、父かもしれない、と思った。  静かな風が、脹脛(ふくらはぎ)を少し冷やして吹き抜けた。夏は、もう終わる。武藤は「電話でもしてみるか」と独りごち、歩き出した。
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