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第16話「誰がために仕事する」
(医師事務作業補助者 函南晴香) 2016年9月
実際のところ、再就職を果たしてからも、登山の時間は大切にしてきたつもりだ。
だから九月の連休の使い方としては、最良だったと思う。久々にホグロフスのジャケットに袖を通し、まだ暗い時間に玄関のドアを開けたときから、心は弾んでいた。
ぐっと大地を踏みしめて、歩く、歩く。空は秋だ。唐松岳の頂上では風が冷たく吹き抜け、麓とは異なる空気が満ちていると実感する。
函南はテント場の片隅で、ザックを下ろして寝転がった。扇雪渓のあたりで軽く雨に降られたが、天候は申し分ない。草の香りは爽やかで、今日は朝から良い日になる予感がしていた。
だが山頂で一人の女の顔が頭に浮かぶと、煙草が恋しくなった。2700メートル近い標高まで来て、こんな気持ちになるなんて。
「ああ、最悪だ」
その女とは、勤め先である安座富町中央病院で知り合った。函南が採用となった2016年4月には、彼女はすでに病院唯一の診療情報管理士としてそこにいた。
最初に言葉を交わしたのは、第一回の『業務棲み分け委員会』でのことだ。主に事務職同士の業務を明確に線引きするための、調整会議である。
「管理士の武藤です。よろしくお願いします」
先に声をかけてきたのは彼女だった。小柄な体躯と抑えた口調ながら、内に秘めた強さ、もしくは攻撃性を函南はすでに感じた。
「あ、どうも。函南といいます」
「ウチは電カルも管理士も導入が遅かったけど、イシジムはその比じゃないくらい遅れてる。函南さんたちには大きな期待がかかってますよ」
「は、はあ。頑張ります」
この時点で、彼女との関係性は決まってしまったのかもしれない。あとから聞けば、武藤は函南より四つほど年少であった。
だが、この病院が医師事務作業補助者の採用において、圧倒的に遅れを取っているのは事実だ。医師の事務的作業にかかる負担軽減を主旨として、2008年に診療報酬として新設された職種だが、中央病院では当時副院長だった梼原院長が二の足を踏んで、導入が八年も遅れたという。
函南は経験者だった。別の総合病院で四年、MSという名で従事した。医療事務の経験もあったので、採用面接を受けるときも不安はなかった。下の娘が生まれたときに三年ほど業務から離れたが、すぐに感覚を取り戻す自信はあった。
そして、面接の翌日には内定の連絡が入った。
特に驚きも喜びもしない。むしろ一緒に受けたほかの二名も受かっていたことを後から知り、少し不快な気持ちにすらなった。
中央病院での職名は、DCと決まった。
「函南さんは経験者だから、リーダーをやってくれるかな」
医事課長の浅利から、そう言われた。DCは診療部に属するため志田病棟部長が直の上司だが、事務的には医事課長が補佐役を担うそうだ。
「どういう業務をするのか、もう明確になっているんですか?」
「ウチは良くも悪くも後続だから、あの頃すぐに飛びついて手探りで始めた病院とは違うよ」
自慢になるかい。
確かに当時は医師側にその役割が浸透しておらず、『仕事をください』とPRなどしていた。
「まずは定番の、診断書関係の下書きだ。それに退院時サマリもやってもらうつもりだよ」
「わかりました。外来ブースには、入らなくていいんですか?」
「もうDC無しで電カル導入しちゃったからなぁ。それより飯田さんたちのフォローをお願いしたいんだ、これからもっと増やす予定だから」
同期入職の飯田は、看護助手の経験はあるようだが事務系職種はほぼ初めてで、PC操作に不安あり。もう一人の木村は十年以上の経理事務経験があるが、医療機関での職歴がない。このメンバーでよく始めようと思ったなと、函南は呆れた。
DCには、事務棟一階の医事課の奥、小さなスペースを、DC室として与えられた。
始めて二カ月ほどは、医師に名前を覚えてもらうのが主目的であるかのように、いくらか不自然なほど明認的に動いた。病院の仕組みを勉強し、わからない医療用語は必ずその場で調べ、疎ましがられても医師へは確認を怠らなかった。飯田と木村は戸惑いつつも積極的に学ぶ姿勢があったため、函南は安堵していた。電子カルテや診断書作成システムにも、少しずつ慣れた。六月にはさらに二名が採用になり、DC業務は比較的順調な滑り出しを見せた。
だが、幾度目かの業務棲み分け委員会で、様相が変わった。物憂げな雨が降り続く日の静かな会議で、武藤が提起した。
「今はDCが代行入力した退院時サマリを医師が承認して、それから私が管理士の立場で確認していますが、これは非効率だと思います」
不意に自分たちの職名が出され、函南は慌てて武藤のほうを見てその言葉の意味を追った。
「医師の負担軽減のためにも、DCが作成したサマリを最初に私が確認し、医師が承認する流れのほうがいいと考えますが、いかがでしょうか」
最初はこの提案がどういう意味を持つか想像できなかったので、むしろ共感した。
「しかし、それは先生方に聞かないと、この委員会だけでは決められないな」
議長を務めるのは、人事課長だ。
この委員会には医師は参加していない。議題のほとんどが、例えば予防接種の予約受付や介護保険主治医意見書の作成フローなど、軽微なものだったからだ。
だがカルテの記載となると、そうはいかない。
それから副院長と病棟部長の了承を得るまで、一週間ほどかかった。かくして退院時サマリの業務フロー上に、下書き時点で管理士の確認を経ることが追加された。
だが運用が開始されると、そこには完全に上司と部下の関係性ができてしまった。
「ねえ函南さん、検査データばかりこんなにベタベタ引用してたら、サマリの意味がないと思いません?」
「あ……そうですね、すみません。でもここの先生って、外科は特に、日々のカルテ記載もいい加減で、SOAPも何もあったもんじゃないので、形にするために――」
「それは私のほうで確認してるし、先生に注意もしてる。少なくとも今は、サマリとして形にする程度の記載は保たれてるはずよ」
ホントかよ、と思った。だが反論できる雰囲気など、そこにはない。
「私、あの上から目線な態度が耐えられないよ」
最初からアレルギーを起こしていたのは、木村だ。彼女はプライドが高く、年下の女にあれこれ言われることが我慢ならないようだった。
「それに非常勤だからって下に見てる気がする」
「それはあるね、間違いなく」
函南にも木村らを宥める理由がなかったため、どちらかと言えばシンプルに「ムカつく」を共有していた。
診療情報管理士は医事課の中に席があって、業務中もふとした瞬間に目が合うほどDCとは距離が近かった。それが原因だったのか、七月末、ついに木村が課長へ辞職願を提出した。慰留の程度は不明だが、八月半ばに木村は去り、これからのことを思うと函南は憂鬱になった。
しかし、DCのさらなる増員をきっかけにして中央病院に『入院サポートセンター』が発足すると、それどころではなくなった。
「元々は、これが一つの目的だったんだよ」
浅利課長に呼び出された函南と飯田は、九月から、この運用が始まると言われた。DCの業界では、最近のトレンドである。
「要するに、手術を控えた患者のトータル的なサポートをする部署だ」
「実際に患者さんと対面するんですか」
「もちろん。この部署には看護師が常駐するから、協力して運営していくんだよ」
やがて外来の一角に、患者と面談をするためのブースが二つ設けられ、函南もこの部署に配置された。クリニカルパスと呼ばれる標準化されたスケジュールに基づき、必要に応じて口腔ケアや術前リハビリ、栄養指導、麻酔医面談などのオーダーを電カル上で登録するのがDCの仕事だ。
実際に始めてみると、ただ端末と向き合って一日を終えるよりも、刺激があった。何せ患者は様々だ。患者の反応だけはパスには基づかない。
だが、早くも失敗をした。
高齢の男性患者が面談室を訪れ、函南が対応したときだ。泌尿器科の再診患者で、前立腺生検の指示書を持ってきた。
「何かお薬を服用されてますか?」
「薬は飲んでるよ。名前はええと、何だっけな」
彼はそう言ったが、指示書には医師の文字で「休薬なし」と書かれていたから、問題ないと判断した。血液サラサラ系の薬を飲んでいる場合、手術の数日前に止めなければ医療事故につながる可能性もある。
「では入院の直前に、改めて看護師より説明いたしますので、予約を入れておきますね」
そこで患者は帰したのだが、入院後、病棟で患者と面談した薬剤師に「持参薬鑑別してないだろ」と言われた。鑑別とは、患者が服用している薬を薬剤師がチェックすることである。
「でも、休薬指示はありませんでしたよ」
「医師の判断は絶対じゃないんだから、そこはDCが確認しないと。ちゃんと聞き取りをして、電カルを見て、必要そうなら医師に聞いたうえで俺らに鑑別オーダーを出すんだよ。それにお薬手帳は確認したの?」
「うぅ……してないです……」
この患者の場合、抗凝固薬のイグザレルトを服用していた。その件で看護師からも「うちらの責任にも関わるんだから、気をつけてよね」と言われ、かなりヘコんだ。
でもこれ、ホントに何の資格も持っていない事務職の仕事か?
そんなふうにも思ったが、もう出来上がりつつある運用を変えるのは簡単ではなかった。
それから数日後、廊下で偶然、武藤と会った。もうサマリの業務から離れていたので、まともに対面することすら久しぶりに感じた。
「お疲れさまです、武藤さん」
「お疲れさま。入院サポートセンターの運営はどうですか? 順調?」
「ええ、まあ、問題は多々ありますが」
武藤は何も答えず、一瞥をくれた。
「函南さんに言うことじゃないけど、どうなんでしょうね。施設基準上、受付業務ってDCの業務外ですよ。そういうの考えたことありますか?」
来た、と思った。たまに話したらこれだ。
「オーダーの代行入力だから、単なる受付とは違うと思うんですが……」
「医師の指示のもとで? 実際は看護師や薬剤師の顎じゃないんですか」
さすがにムカッと来て、返事もせずその場を去った。この女には遠慮も礼儀もないのか。
その日はバタバタして、遅れて昼食を取った。病院のすぐ近くにある喫茶『コロラド』に行くと、店の奥のテーブル席で、一人でケータイ画面を眺める厚生係長の畑野伊織を見つけた。
業務での関わりは少ないが、彼女とは割と仲がいい。娘の看護休暇を取るときに相談に行ったのがきっかけだ。安座富町のような田舎には不釣り合いなほどメイクもファッションもキラキラで、同性でも目を奪われるような綺麗な女だった。
「武藤さんと話してると、何が自分の仕事かわかんなくなるんだよなぁ」
何となく、愚痴ってしまった。前にも何度か似たような話をしたことがある。
「いいじゃん、今は接点が減ったんだから」
「うん。でも考えるよ、あの人には、迷いとかないのかなって。自分のしてる仕事についてさ」
「全くなさそうだねー。まあ彼女のことはさておき、DCの仕事なんて、わかりやすいと思うけど。医者が少しでも楽になれば、それは仕事として成功なわけでしょ? 入院サポートって医者に関係ないの?」
言われてはっとした。ここ最近、医師の負担軽減についてまともに考えたことがない。
「患者は話したがりだから、いつも助かるよってお礼を言われたことがある。おかげで手術だけに向き合えるって」
「なあに、贅沢じゃん。あたしは仕事キライだからなぁ。厚生係って何なんだよっていつも思う」
両肘をついてため息をつく彼女のその表情も、仕種も、ひとつひとつが洗練されていた。
「仕事なんて、好きって言えるほうが少ないか」
「ま、そりゃそうだよね」
畑野は笑った。それが、先週のことである。
久々の北アルプスで夜明けを迎えたあと、下山中にふと立ち止まり、「わぁ」と呟いて澄み渡る山麓に見入った。いつものことだ。山も、海も、空港や高層ビルも、それに鎌倉の大仏さんだって、大体のものは見たことがあるし、見たことがなくても想像はつく。だけど改めて実際にこの目で見ると、大きくて、広くて、そうして何度でも「わぁ」と感嘆するのだ。そんな瞬間が、函南は好きだった。
さて、エネルギーは充填完了。
ゲンキンなものである。跳ねるような足取りで、函南は山を下りた。
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