第18話「ケンカの作法」

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第18話「ケンカの作法」

(医事委託職員 野宮梢(のみやこずえ)) 2015年8月  高校の頃の同級生から突然電話があったのが、八月の、とりわけ暑い日の夜のことだった。  彼女とは特別仲が良かったわけではなく、むしろ強引で図々しいところが苦手だったから、最初は少し面食らった。 「あんた、確か病院に勤めてたよね。今も?」 「あー、うん。今もだよ」 「ちょっと聞きたいことがあるんだわ」  十三年ぶりに連絡してきた理由が、それだ。  野宮は、話しながら医事課を出た。二十時を過ぎ、がらんとした外来ホールを歩く。 「うちの父親がさ、こないだ入院したんだけど、そのとき個室に入ったんだよ。でね、バカ高い入院費を請求されたの。えっこんなにかかるんですかって聞いたんだけど、決まりですからとしか言わないわけよ。そういうもんなの?」 「えーっと、それだけだと分からないけど、取りあえず、お父さん無事なの?」 「退院はしたけど、右目を失明して今も通院中」  聞いてみると、彼女の父親が微熱を感じて市販のカゼ薬を飲んだところ、一気に高熱が出て、唇や喉が腫れ始めたという。目の充血もひどくて眼科にかかると、細菌性の結膜炎と言われた。だが身体中に紫色の発疹も出てきて、慌てて夜間休日診療所にかかると近くの総合病院を紹介され、緊急入院となったそうだ。そこではスティーブンス・ジョンソン症候群と診断された。 「入院中は、もう話も全然できなかったし、正直見てられなかったよ。身体中がヤケドみたいで、目の中にまで水泡ができてさ、痛々しすぎて、あまり会いにも行けなかったんだよね」 「大変だったね……。退院できて、良かった」  死亡することもある病気だ。大げさではない。 「でさ、聞きたいのは個室代のことなんだけど、ホントに払わないといけないのかな」  窓の外を見ると、暗闇の中で、やけに強い風が木の枝を大きくしならせていたのが見えた。そういえば、大型の台風が近づいていると聞いた。 「そのとき、手続きは? 本人が望んだ場合じゃないなら、払う必要はないと思ったけど」 「望むも望まないも、意識なかったんだから。先生に、安静が必要だから個室に入れていいかって聞かれて、そりゃ家族は承諾するじゃん」 「何か、書類書いた?」 「確か、お母さんが泣きながら書いてた」  それはマズいなと、野宮は思った。書類上は、患者側が個室を希望したことになる。 「ちょっと調べて折り返してもいい? ちゃんと主張する余地はあるはずだから」 「了解。お母さんは、今もそこに通院してるから波風立てたくないって言うけど、私は言うよ」  彼女は笑ったが、母親の気持ちもよく分かる。  野宮は席に戻り、点数本を開いた。巻末近くにある選定療養の章で、「特別の療養環境の提供」の部分を読んだ。これは個室代を指している。ここには『患者への十分な情報提供を行い、患者の自由な選択と同意に基づいて行われる必要があり』と書いてあった。これは厚生労働省通知だ。 「そうなんだよなぁ、前にも調べたっけ」 「何、どうしたの」  入院係リーダーの藤巻浅子(ふじまきあさこ)が、声をかけてきた。 「いや、知り合いから相談されてさ。ちょっと調べてたの、室料差額のこと」  それから簡単に相談の内容を説明すると、藤巻は眉間に皺を寄せた。 「それは、言ってあげた方がいいね。文書での同意を、逆手に取ってるわけだから」 「でも、同意書を取られてるのに、覆るの?」 「強く言えば勝てるよ。明確に根拠を示したら、揉めたくないからすぐに態度を変えると思う」 「なるほどね」  それから再び外に出て折り返しの電話を入れると、今の話を伝えた。 「分かった、ちょっと話してみる。でも病院って怖いところだね。あんたの病院も、こういうことやってんの?」 「―― まさか」  一瞬、言葉が出なかった。  自分の知る限り、ここ安座富町中央病院では、そういった事例は聞いたことがない。  野宮は医事課へ戻った。藤巻が視線を合わせてきたので、「大丈夫そう」とだけ言った。  ―― 少し違うけど、でも一緒かな。  頭をもたげる。もちろん自分の責任ではないけれど、気が滅入った。  睡眠時無呼吸症候群(SAS)の検査入院については、中央病院でも個室代を請求しているのだ。検査は一泊で、入院基本料が約4500点、それにPSG検査と呼ばれる終夜睡眠ポリグラフィーの点数が3300点だ。ここに個室代が加算され、三割負担の患者で四万円近くにもなる。部屋は野宮の担当する西三階病棟にある。  ふと周りを見ると、委託スタッフの残業組は随分と数が減っている。統括リーダーの辻原麻衣(つじはらまい)は、支社の会議で早々に病院を後にしていた。 「何とかなんないもんかねぇ、SASの個室代」  雑談レベルで、藤巻に聞いてみた。 「ウチの話? ぎりぎりの線だね、説明文書がよくできてるよ。『精密検査のため個室でないと正しい数値が出ないので、個室に入って頂くようお願いしています』じゃなかったっけ」 「最後の判断は、患者側に委ねられてるんだ」 「他の病院じゃ、個室代無料の方が一般的な気がするけど、病院の方針次第なんだよなぁ」  藤巻は笑って、端末に視線を戻した。さしたる興味はなさそうだ。それから彼女は「呼吸器内科のことはよ」と言った。今や外科ひとすじの手術バカである。  係長に相談するか。いや、時期が悪いな。  野宮は部屋の一方を見た。同じ医事課の中に病院職員の島があるが、医事係長の佐々木を始めとする三人の病院職員は黙々と仕事をしていて、異様な緊張感が漂っていた。2015年の10月から電子カルテを導入するため、毎日深夜までその準備に追われているのだ。運用開始まで、もう二か月である。今何かを相談しても、血走った目で「俺に何か用か」と睨みつけられる気がした。  まあ、いっか。  今までそうだったんだし、今さら騒いでも仕方ない。野宮は深く考えるのをやめた。  それから数週間後のことだ。  その日は早く帰れたので、19時頃には自宅で豚の生姜焼きをパクついていた。 「そういえばさ、こないだ久々にしぃちゃんのお母さんと話したよ」  カウンターキッチンの向こう側で、フライパンを洗いながら母が言った。 「誰よ、しぃちゃんって」 「あんた、高校のとき仲良かったじゃない」  それで一人の同級生の顔が浮かんだ。こないだ電話で相談してきた女は詩織という名で、しかも母親同士がフラダンスサークルの仲間だった。 「仲良くないって」 「あ、そうだっけ。あそこんち、お父さん大変だったみたいね」  知っていたが説明が面倒だったので、黙って白飯を口に運んだ。そして味噌汁をすする。 「六十手前で、いきなり死んじゃうなんてね」  思わずむせ込んで、吐き出しそうになった。 「し、死んじゃったの?」 「こないだ、告別式だったって」  ということは、一度退院はしたものの、やはり容態が悪化したのだろうか。  食事を終え、部屋に戻った。彼女に電話をかけるかどうか迷ったが、一応かけることにした。 「あぁ野宮か。お母さんから聞いたんだね、気を遣わせちゃったかな」  彼女は、こないだと変わらない様子だった。 「そうだ、個室代は払わなくて良いことになったよ。私はの気分だったけど、割とあっさり。説明不足だったので料金は要りません、だって」 「そうなんだ、良かった」  その決闘が、父親が亡くなる前のことか、後のことか。それは聞けなかった。 「相談してみるもんだわ。助かった」  そう言って、彼女は電話を切った。  次の日、朝一番で野宮は、医局に向かおうとしていた辻原を捕まえて、話を切り出してみた。 「まあ今さらの話だけど……グレーだよね」  辻原はかなり小柄なので、立ち話だと少し見下ろす形になる。生粋のレセプト好きである彼女は、管理職を務めつつ、現場では実務もこなしていた。  患者に聞こえないよう、医事課の中に戻った。 「野宮さんとしては、腑に落ちないわけね。でも今は係長たちも忙しいし、課長に聞いてみる?」 「できれば、イサコさんがいいな」  野宮は考えていたことを言った。鑑伊沙子(かがみいさこ)は、医事課の下に属する医療法務室の室長だ。施設基準から訴訟まで、幅広く担当する部署である。 「分かった、じゃあ今から行こう」  二人は地下にあるその部屋を訪ねた。  鑑は一見すると院長よりも威厳のある風格で、やや高圧的な話をするが、話をよく分かってくれる人格者でもあった。  だが、「私は本当にアウトなとき以外は、経営方針に従うわよ」と、最初に釘を刺された。 「私も職員だからね。外部委員じゃない」  鑑は自分のデスクでイスの向きを変え、二人を見上げた。ここは弁護士も訪れるので接客用のソファが置かれていたが、座るわけにもいかず、まるで職員室で教師に叱られる生徒のようだった。 「患者さんを騙してることにはならないでしょうか」 「説明の仕方次第ね。でもそれは、書面上は残らない。それよりも、どうして野宮さんは、このことを急に問題視したの?」  思いがけない問いに野宮が黙っていると、辻原が代わりに答えた。 「イサコさん、請負の立場でも、それが問題だと思ったら、病院の減収につながる指摘だってするよ。ただ今回の話は、最初にイサコさんに相談したかったの。何が一番病院のためになるか」 「そっか。だったら、味方だね」  鑑は少し笑みを浮かべた。 「大事なのはコトの進め方よ。正しいことを主張するときほど声は小さく―― っていうのが私の持論。だって正しさは、それだけで力なんだから。幹部は頭が固いわよ。だけど、目的は言い負かすことじゃない。そうでしょ?」  そう言うと、にっこりと微笑んだ後、鑑は視線を外して手をひらひらさせたので、どうも話はそこで終わりのようだった。二人が部屋を出ようとすると、鑑は「佐々木くんには話を通しておいた方がいいわよ!」と叫んだ。  野宮の思考は、ぐるぐると巡っていた。  それからしばらくして、辻原が、佐々木係長へひとつの提案をした。野宮はその様子を少し離れて見つめていた。 「非同意のチェック欄?」  佐々木は案の定、煩わしそうに答えた。電子カルテの運用開始まで、もう数週間だ。病院の大きな節目となるその時を、妙に涼しい残暑が迎え入れようとしていた。 「今の同意書は、同意欄しかないですけど、その下に、同意しないという欄を作るんです」  検査予約の段階で個室のことを説明し、同意書の記載を促すのは看護師だ。そこで、患者の断るチャンスを明確化する。もともと個室以外での検査は想定されていないのだから、個室の拒絶は検査のキャンセルを意味する。そこは変えない。 「キャンセルなら、書類を書かせる意味がない気がするけど」 「その欄があること自体に、意味があるんです」  そう言う辻原も当初は、どうせ話を出すなら無償化を主張したらどうかと言っていた。しかし野宮の躊躇いをひとまず酌んで、大部屋という選択肢を設けるわけでも、個室を無償化するわけでもない、中途半端なこの提案を引き受けてくれた。  野宮が躊躇する理由は簡単だ。大規模な減収や運用変更を避けたいという、保身的でコトナカレな感情であった。 「まあ辻原さんが言うなら、一応話は出してみますよ。時期が時期だから、棚上げ必至だな」  二人は笑ったが、野宮の気持ちは晴れなかった。 「不安そうな顔してるね」  辻原が野宮に言った。 「私は何がしたかったのかなぁ。イサコさんの意図とも、合ってない気がするし」 「大丈夫。自分の思い通りに事が進むなんて、そもそもありえないんだから。石ころを投げたんだよ。それでいいじゃん」  一石でなく石ころと言った辻原に、思わず野宮は笑った。  まあ、いっか。  これは口癖だった。元来、そういう性格である。投げた石ころは水面に波紋を描き、やがて自身の与り知らぬところで、どこかの岸に何かを届ける。  野宮は仕事に戻った。電カル導入を控え、新旧端末を二台並べた平行稼働時期である。佐々木たちほどではないが、やることは多い。  窓の外を見ると、初秋の風が吹き始めていた。かつての級友にはまだ胸を張れないけれど、今はそれでも仕方ないと思った。
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