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第21話「多忙の果て」
(医事係長 佐々木夏人) 2015年8月
寝不足のピークで朝からイライラしていたところに、余計な話が舞い込んできた。
「悪ぃんだけど佐々木ちゃん、前立腺がんでダヴィンチの適応患者、洗い出してくんねぇかな。投資の収支見込みを立てたいんだわ」
電話の主は経営企画課長の登坂だ。この人は、いつだってこの調子だから参る。
「あのねえ登坂さん、俺が今、どんだけ忙しいかわかってます?」
「一年分だけでいいからよ。経営が落ち込まないうちに、本部を説得して買っちまいたいんだ」
佐々木は、大きく溜息をついた。
2015年8月。安座富町中央病院では今、電子カルテ導入という大イベントを二カ月後に控え、院内が不思議な緊張と高揚感に包まれていた。電カル導入の、事務方の中心は医事課である。
「電カルほどじゃねえけど、ダヴィンチもデカい買い物だからな。とりあえず遠隔転移と緑内障を外して、件数をカウントしてみてくれよ」
そう言うと、さっさと電話を切ってしまった。
ふと周りを見ると、部下の納見慧一や武藤紗苗が、憔悴した顔で端末を睨み、キーを叩いている。
最初の打ち合わせが5月だったから、もう3カ月になるのか――。佐々木は指折り数えた。
医事会計システムしかない状況から、部署間の伝達を担うオーダリングシステムと、診療録自体をデータ化する電子カルテとを併せて導入するのだから、半年の準備期間でも十分ではない。
最初は委託業者である㈱AIMメンバーを含めた医事WGが先行し、その後発足した「コア会議」を中心に、多くのWGが立ち上がった。そのすべてに、医事課職員は出席する。処置・手術・輸血・食事関連を佐々木が、薬剤・検査・画像診断・リハビリを納見が、そして受付・カルテ・レセプト・文書等を武藤が担当した。
「そういえば来月のリハーサル、実施計画書の素案を渕上さんからもらったんだ」
佐々木は納見と武藤に声をかけた。経営企画係長の渕上由佳は登坂の部下で、電子カルテ導入に関する事務方のリーダーだ。彼女がいるおかげで、佐々木らは医事側の調整だけに集中できる。
「再来受付機は間に合いますか?」
「今月末に納品されるらしい。その動作確認も、患者の動線確認も、重要なポイントだな」
佐々木は答えながら、コピーしておいたホチキス留めの資料を、二人に手渡した。目を通してもらう間に医事課を出て自販機コーナーに向かい、コーヒーと紅茶、ジンジャーエールを買った。窓を見ると、強い西陽が射している。
部屋に戻って二人に選ばせると、佐々木は残ったコーヒーのプルトップを開けた。
「リハーサルがうまくいかないと、10月1日からの本番は成功するわけないですね」
「まあ、リハは問題点が検出できればいいんだよ。いや本番だって百点満点は無理なんだから、少しでも精度を上げるという考え方でいくしかない」
武藤は完璧主義者なので、その割り切りができるか、やや心配ではあった。
「最初がうまく回っても、僕らは安心できないですね。マスタ地獄から、もう逃げ出したい…」
「納見の泣き言なんて、初めて聞いたな」
佐々木は笑った。導入準備で最も時間を割くのがマスタ作りだと、電子カルテの製造販売会社である㈱カルテノイドの担当SEは最初に言った。
現時点では、医師が患者に対し検査を実施したり薬を処方する際に、複写式の伝票に手書きし、検査科や薬剤部に送る。同時に複写の一部は医事課へ送られ、診療費が計算されるのだ。医師はカルテへ診療内容を記載する。
そういった紙運用をIT化するための根幹が、夥しい数のコード群である。例えば医師が結核疑いの患者にPCR検査を行う場合、電カル端末からその検査コードを指示すると、検査部門システムがそれを受け取って、検査科で検査を実施する。その内容がカルテにも記載され、医事には「結核菌群核酸検出」という算定項目が伝わるのだ。
この一連のために各システムでコードを作り、それらを紐づける作業が、マスタ作りだ。
「悪いんだけど、今日はちょっと早めに上がって広瀬と飲みに行くわ。二人は……行かねえよな」
佐々木が聞くと、納見は苦笑した。
「先に入るデモ端末の配置も考えなきゃいけないし、今日は無理ですね。明日、広瀬くんにも相談するから、飲みすぎないでください」
武藤に至っては一瞥もくれなかったが、彼女は今月末に予定されている病名のデータ移行に向けて、AIMのベテラン勢とともにレセプト病名やフリーワード病名の整理に追われて忙しいので、最初から期待はしていなかった。
佐々木は操作研修のスケジュール案を作成し終えると、22時半には仕事を切り上げた。
中央病院から歩いて五分、院内PHSがぎりぎり圏内の場所に「鳥やすみ」という居酒屋があって、病院職員のご用達である。
看護師宿舎の脇道を広瀬と二人で歩いた。寝不足か、頭痛がする。夜になっても蒸し暑い日だ。
広瀬椋太はまだ二十二歳の若者で、システム管理室に属する派遣職員のSEである。経験は浅いがベンダーの担当SEとも真剣に話し合い、電カル導入の確実な戦力だった。従順で付き合いも良いので、佐々木は特に可愛がっていた。
「お前、最近は総務課ばっか行ってんじゃねえかよ。須井さんと飲みに行ったんだって?」
この日は最初から、少し絡んでみた。広瀬は最近、電カル導入に向けたネットワーク工事に引っ張り出されていて、顔を合わせることが減った。
「勘弁してくださいよ、仕事なんですから」
「須井はダメだ、あれはタチ悪いぜ」
「思いっきり呼び捨てしてるけど、先輩でしょ」
総務係長の須井は年齢も職歴も佐々木より上だったが、昔から折り合いが悪かった。
「まあ固いこと言うなよ、取りあえず飲もうっ」
広瀬を前に、佐々木は仕事も頭痛も忘れた。ビールに冷やしトマト、つくねとせせりと油淋鶏。彼といると、いつも必ず楽しい時間になる。
結局その日、店を出たのは一時過ぎだった。
数日後、朝っぱらから武藤が報告にきた。
「外来カルテの要約、遅れてますね」
「ホントかよ、まずいな。外来ブースで山積みになってるのはそれかぁ」
初期のコア会議で、電カル導入後は絵図利用が多い眼科などを除き、できるだけ過去の紙カルテを引っ張り出さない方針が決まった。
そのため、次回予約が電カル導入後の十月以降になるアクティブカルテについては、仮データベース上で担当医がサマリを作成することとなっていた。スキャンが必要な書類は、付箋紙を付ける。武藤がそれらを回収して一括登録するというのが計画であった。
「7月にはもう入力が始まってたよな」
「志田先生から医局に再周知してもらわないと」
「ちょっと待ってくれ、先に一つ、メールだけ」
佐々木は昨夜遅くまで処置マスタを作っていた。これ以上遅れると、リハーサルに間に合わない。広瀬宛てに、データを送信した。
「そういえば、納見は?」
「リハビリ科に行きました。廃用症候群評価表の件と、義肢装具士と打ち合わせがあるとかで」
「それは今じゃなくていいだろ……」
「知りませんよ。志田先生には私から話しますか」
「いや、俺が行く。それより再来受付機から出力される受付票の表記が分かりづらいって話があったから、確認してくれないか」
「分かりました」
再来受付機が納品されたので試験してみると、予約の有無や特殊外来などによって受付パターンが細分化され、リハーサル前の課題になった。
武藤はすぐに席を立った。佐々木は佐々木で、志田部長の元へ向かった。
「佐々木さん、ちょうど良いところへ」
病棟部長室を訪ねると、志田から話を出された。
「こないだ出してもらった電子画像管理加算の試算、ここが間違ってないかな」
資料を広げられ、何となく佐々木は焦った。
「試算では半切とB4フィルムの枚数分算定してるけど、一連の撮影に対しての加算だから、こんなに増収にはならないでしょう」
これはヤバい、と思った。もしもこの誤りによって損益がひっくり返れば、医用画像システムを先行して稼働させる話が変わってくる。
「すぐ確認します。それと外来カルテですが…」
結局、本題には大して時間を割けなかった。
医事課に戻ると、荏田というベテランのソーシャルワーカーが待っていて、介護保険主治医意見書が電カル稼働後にどうなるかを問われた。
「診断書作成支援システムは、現行通り継続するって話は前にもしましたが――」
「でも、主治医意見書だけは別のシステムだよ」
言われて、はっとした。
「ええと、それは武藤さんが把握していて…」
さりげなく視線を向けたが、席にはいなかった。納見に聞くと、歯科システムの打ち合わせに行ったらしい。歯科は単独のシステムを使うため、別に調整が必要だ。AIMの歯科算定スタッフを連れ、武藤は外来に行っていた。
「荏田さん、確認してあとでお伝えします」
とりあえず、そう答えた。
頭痛がやまない。
8月も終わりを迎えた頃、医事課に内科医長と外来看護師長が連れ立ってやってきた。
「係長さん、今ちょっとだけ大丈夫?」
師長が遠慮がちに言うと、医長が口を開いた。
「佐々木さんは、処置の担当だったよね。ちゃんとデモ画面を確認してますか?」
「えっと、画面というと――」
「内視鏡的粘膜切除術のところ。私も気づかなかったから悪かったんだけどさぁ」
横から師長がフォローを入れてくれた。
これはこないだ、広瀬に送ったマスタの中身だ。
検査科や放射線科等の他部門を経由しない場合は、実施後に、医師や看護師が医事課へ伝えるためだけにオーダーを出す。だがEMRは診療報酬上は「早期悪性腫瘍粘膜切除術」と「その他」に分かれていて、悪性腫瘍か否かによって点数が異なるのだ。
「カルテ画面では診療報酬そのままの文言になってますが、実施した段階では悪性腫瘍かどうか確定していない場合もあるし、病理診断前にどうやって選択するのか聞きたくて」
近くに広瀬もいたので一緒に画面を確認すると、何も考えずに作ったのが明らかだった。
「算定だけじゃなくカルテの問題にもなるから、慎重に考えた方がいいと思います」
「すみません、すぐ修正します」
そう答えると、二人は去っていった。それからすぐに広瀬の方を向いて睨みつけた。
「お前なぁ、俺が渡したマスタ、何も確認しないでそのまま載せたのかよ」
「えっ。だって、僕は中身までわかりませんよ」
「病院勤務のSEなんだから、診療報酬は何もわかりませんってわけにはいかねえだろっ」
佐々木が語気を荒げると、納見がこちらを見た。
「ガキの使いじゃねえんだから、ダブルチェックくらいしろよ!」
そう怒鳴ると、広瀬は眉間に皺を寄せて黙った。佐々木の見る限り、彼は叱られて伸びるタイプだ。今までも病院のいろんな知識を教え込んできたし、自分が育てたという自負もある。だがさすがに今回は完全に責任転嫁だなぁと、興奮しながらもどこか冷静な頭で思った。そして次に広瀬を飲みに連れて行くときは、少しいい店にしてやろう、などと考えていた。
だが、その日は来なかった。
広瀬が十月末日をもって退職することを、リハーサルの前日に総務課長から聞いた。派遣会社からは、別のSEが派遣されることになるという。
嘘だろと思い、すぐに広瀬本人に聞いた。
「元々の予定です、とりあえず電カル稼働まではちゃんとやり遂げようと思ってました」
「移行後の方が、SEとしてはむしろ重要だろ」
「……もう決めたことなんで」
広瀬とその話をしたのは、あとにも先にも一回だけだった。彼は彼自身が言ったとおり、最後の2カ月をしっかりやり遂げた。
安座富町中央病院の電子カルテ導入は、問題をいくつも抱えながら、それでも確実にスタートを切った。この夏は酷暑だったのに9月は妙に涼しくて、10月は肌寒かった。
佐々木が広瀬の退職まで、ただの一度も飲みに誘わなかったのは、渕上から「広瀬くんがパワハラの相談をしてたらしい」と聞いたからだ。派遣契約の苦情処理担当者が登坂になっていたから、そこから知ったのだろう。
11月10日のレセプト請求直前、データ連携のミスで食事療養費の算定誤りが判明し、その対応に、医事課は多忙を極めた。新任のSEは四十代のベテランで、佐々木はいろいろ教えてもらった。
年が明けて仕事が少し落ち着いた頃、佐々木は何度か、広瀬に電話しようと思った。新しく勤め始めたことを、噂で聞いたからだ。
だが、電話はしなかった。
きっとあいつのことだから、仕事への真摯な姿勢と責任感、そしてあの人柄で、うまくやっているに違いない。そう確信した。
中央病院はIT化を完了し、新たな局面を迎える。佐々木は、自分も変わるときだと思った。
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