第22話「遠隔プロジェクト」

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第22話「遠隔プロジェクト」

(経営企画係長 渕上由佳(ふちがみゆか)) 2015年11月  十一月に入ると、一気に日が短くなった。  季節問わず、よほどのことがない限りは明るいうちに職場を出るのがモットーだったから、業務は効率よくさっさと終わらせることにしている。  最近は、駅前にできたフィットネス&スパに行くことが多い。その後、時間が合えば仕事帰りの夫と待ち合わせして、遅い食事をとる。渕上は安座富町(あざとみちょう)中央病院で経営企画係長を担当しており、スケジュールは比較的自分で調整できるのだ。  それでも、電子カルテ導入に至る過程では事務方の仕切り役を担い、さすがに残業も増えた。電カルは十月に稼働したが、事後にもやることは多い。病院全体に血管のように行きわたるネットワークであるため、各部署と協力して正常な動作を確認する「検収」の作業が、何より膨大だった。その検収をもって、製造販売会社(ベンダー)に金を払う。  しかし渕上にとってこれは、どちらかといえば退屈な業務だった。IT化はこの病院の数年来の課題で、勝手に降ってきた仕事だ。経営企画課の本分は、自ら企画を立ち上げることにある。  だからこそ、渕上が温めてきた「別件」は重要だ。自ら定時上がりのモットーを崩してでも、取り組む価値はあるなと考えていた。 「まあ、崩さないですけどね」 「なんだよ、自分から仕事増やすなんて珍しいなって思ったところなのにな」  直属の上司である経営企画室長の登坂(とさか)は、無遠慮にガハハと笑った。  もう忘れているだろうが、電カルの話が具体的に進み始めた一年半前、彼は何気なく「これからは遠隔医療の時代だよな」と言った。そのときは、随分と先走った言葉のように聞こえた。  少し調べてみると、遠隔医療は1997年の厚生省通知を契機に、患者と対面での診療を基本とする医師法第二十条との整合性を図りながら、少しずつ推し進められてきた。ICTが格段に飛躍してきたここ数年を考えると、今は変革期だ。 「電カル導入後に、何かやれそうですね」 「元手のかからない方法で頼むぜ」  そんな会話をした。  遠隔医療には対患者の診療行為だけでなく、他の医療機関や医師とネットワークにより患者情報を共有して遠隔診断を行う分野があり、そのなかでも渕上は画像診断に注目した。  いわゆる、遠隔読影(えんかくどくえい)だ。  中央病院では常勤の読影医がおらず、いくつかの近隣病院から非常勤(バイト)の読影医たちに来てもらっていた。専用の部屋には院内各科の医師が依頼したフィルムが山積みになっていて、それを診断して帰るのだ。収益はなく、謝金費用だけが嵩む。  これは儲け話になるか――?  渕上はまずそう考えた。遠隔読影はかなり前から保険適用が認められていて、あとは委託先さえ見つかれば、収支の試算はできる。これを進めるなら、医局や放射線科とも調整が必要だ。  そんなふうに渕上は、この事案を、電カル導入後の一手として懐で温めた。  六月半ばのある日、夕方になって渕上は総務課を訪れ、物品調達係長の塚村と話した。 「遠隔読影?」 「電カルと一緒に、放射線科情報システム(RIS)も、医用画像システム(PACS)も、ベンダーが決まったじゃん、具体的な話ができると思ってさ」  近くの丸イスを引っ張ってきて隣に座ると、塚村のデスクに資料を広げた。彼は県立療養所時代の一年先輩で、ともに民間移譲の際の残留組である。経営企画課は、その際に新設された。 「いろいろ調べてみたけど、受託側の病院を自分で探すのはけっこう大変なの。特定機能病院とか加算の届出なら調べられるけど、ベテランの読影医がいて、しかも都合よく、ウチの依頼数をこなすだけの余剰マンパワーがなきゃいけない」 「それで専門の仲介業者と契約するわけか」 「あたりは付けてある。近いうちに、一緒に話を聞いてくれない?」 「いいよ。技師長に話は?」 「したけど気乗りしない感じだった。今来てる先生たちとの関係もあるからね」  ため息をつきながら、資料をめくった。放射線科の二ノ宮技師長は、気難しくて有名だ。 「CTやMRIの依頼予定件数は、今の先生たちをみんな切ると仮定して、頭頚部がこれで、胸腹部がこれ。収支は画像診断管理加算の2じゃないと話にならないから、八割以上の翌日報告が必須でしょ。いろんな意味でハードル高いよね」  渕上が笑って塚村を見ると、彼は資料を食い入るように見ながら「確かに」と答えた。 「まずは業者に話を聞きたいから、セッティングしたら声かけるね」  話したいことを話したら、渕上は立ち上がった。総務課長の頭越しに窓の外を見ると、今にもひと雨来そうな空模様だ。今日もさっさと帰ろう。 「あ、そうだ。塚村さん、予定日いつだっけ」  不意に思い出して渕上は聞いた。塚村の妻は看護師で、結婚式で一度会った。 「十二月の末だよ」 「そっか、奥さん大事にしてね」  そういうと事務室を出て、階段を降りた。  それから渕上の方が忙しくなり、遠隔読影の案件はしばらく放置となってしまった。  八月の始め、厚生係長の畑野伊織(はたのいおり)が渕上の元にやってきて、「医事課の超勤がヤバいっす」とぼやいた。三つ年下の後輩で、よくなついてくれる。 「あんたも結構ヤバいって聞いてるよ。部下を連携室に取られちゃったし、しかも新専門医制度までやらされてるんでしょ?」 「あたしは別に平気。ほぼサービス残業だから」 「それがヤバいっての」  渕上とフロアは違うが、畑野のいる二階ではいつも特定の職員だけが遅くまで残っている。 「由佳さんは何でさっさと帰れんの。電カルの仕切りって、完璧に業務の純増じゃん」 「適当に手を抜いてるから。でも最近はちょっと忙しくてさ、過労だよ」 「嘘でしょ」  畑野は眉間に皺を寄せて笑った。アイラインの上からでも、彼女の疲れ目がよく分かる。 「でも畑野はもったいないよね。見た目通り、もっとクールに、さらっと生きらんないもんなの?」 「自分では器用な方だと思ってるけど」 「どこが。傍から見てても疲れるよ」  渕上が冗談めかして言うと、畑野は笑った。  仕事に悩んでいるくせに手を抜くこともできない、畑野のような人間は嫌いじゃない。渕上はほんの少しだけ触発されて、じゃあそろそろ動かすかと、例の業者に連絡を入れた。㈱インプレイズはここ数年で、業界シェアを伸ばしている。 「弊社は加算2の算定を前提に遠隔読影の支援を行っています。あくまで委託契約は、送信側・受信側の両医療機関で結んでもらうんですよ」  営業担当は、柴木と名乗った。  彼の口ぶりは、自分らは他の業者とは違うと言いたいようだった。確かに渕上がいくつか調べた範囲では、診療報酬には触れないところが多い。施設基準上の要件が入ると、契約内容も当然に厳しくなるからだろう。 「他の業者さんから、去年の点数改定で、いろいろ変わったと聞きました」 「正直言いまして、激震でしたね。でも国は遠隔読影の芽を摘んだわけじゃありません。外注して算定するなら、施設基準取得済み施設の、と言いたいわけです」  彼の話では、画像診断における外注のルールが、この改定でかなり明確化されたという。 「御社は大丈夫だったんですか?」 「弊社でも取得済みの病院さんの穴埋めをするケースはありましたから、打撃でした」 「ウチはもともと取得してないし、明快ですね」 「話が早い。弊社のホームページもご覧くださいね。社名の由来は谷崎潤一郎の陰翳礼賛(インプレイズオブシャドウズ)なんですが、我々の業界で陰影を礼賛しちゃマズいだろってことに後から気付いて、今は削除されています」  そう言って彼は笑った。  何となく、信頼できる人柄に感じた。すぐに来てほしかったので、候補日時をいくつか提示してもらった。システム管理室や医療法務室にも、同席してもらいたい。  だが結果的に、どの部署も電カル業務で忙しく、来院は実現しないまま時が過ぎていった。  九月に入ってすぐ、不穏な話が舞い込んだ。帰り支度をしていた渕上に、登坂がいつになく険しい表情で「マズいことになった」と言ったのだ。 「何ですか、思わせぶりな」 「広瀬から相談されたんだ、パワハラだとよ」  登坂は小声で言った。  広瀬椋太は派遣職員のSEで、システム管理室に属する。まだ二十歳そこそこの青年だ。 「パワハラって、誰に。杉山室長ですか?」 「いや、違う。室長も同席して話を聞いた」  登坂が深刻な顔をしていたのは、すでに中央病院の母体である橘橙会本部宛てに、実名入りの投書があったからだ。恫喝や罵倒、長時間の説教拘束など、具体的な内容が記されていたという。 「最近はネットワーク工事で、ずっと総務課と一緒に動いてたからな」 「まさか、須井係長ですか?」  総務係長の須井暢介(すいのぶすけ)は、渕上の数年先輩だ。 「もう辞めたいって言ってる」 「真面目な子だったのに……。もったいないですね。佐々木くん、ショックだろうな」  医事係長の佐々木が広瀬を気に入って、よく面倒を見ていたのは知っていた。さすがに須井の名は出せないが、後で佐々木にこっそり教えてやろうと思った。  経営企画課は、多くの係と関わる。誰かと話すたびに「いろんな人がいるなぁ」と感じるが、須井の一件だけは、それでは済まないだろう。  十月の半ば、ようやく柴木と対面する機会を得た。塚村と二ノ宮技師長のほか、システム管理室の杉山室長、医療法務室の(かがみ)室長が同席した。  二階事務室の中央テーブルに、一同がつく。  話してみると、課題は山積であった。  最初に技師長が「読影レポートの質をどう担保するのか」と厳しい口調で聞いた。 「弊社が紹介する病院さんは、ハイレベルですよ」  柴木は委託先の候補として、京都市にある民間病院の資料を見せた。だが医局の承認を得るためには、事前のデモが必須だ。いざ始めてみて診療に影響が出たなどと言われたら、大問題である。  システム面でも指摘があった。RISの一部にレポートシステムがあり、ここに「過去レポートも自動で添付する」という固有の機能がある。 「遠隔読影システムによってはそれを受け取る仕組みを持ってないので、RISベンダーはそれを先に確認したいと言ってる」  杉山はそう言った。システム間の連携には当然ながら接合(インタフェース)の確認が必要だ。合わなければいずれかのシステムの改修が必要になって、専用PC端末やルータだけだと思っていた初期費用が増大する。  鑑は施設基準上の問題として、「非常勤読影医が残った場合、外注する部分だけに加算を適用できるのか」を厚生局に確認したいと言った。  契約面では塚村が「中継用のDICOMサーバやVPN環境を提供するのなら、三者契約にして仲介業者の責任を明確にすべき」と指摘した。  皆の話を聞きながら、渕上は柴木の提示した基本料金表に見入った。仮に実現に至ったとして、どの程度の収支改善になるだろう。非常勤読影医の雇用契約については、幹部とも調整が必要だ。 「いやあ、先の長い話だこと」  渕上は他人事のように呟いた。やるなら来年度から始めたい。だが、本当にできるだろうか。  駅前の新しいジムを見つけたのは、そんな頃だった。運動のついでにヘッドスパやマッサージに通ううち、わずかに残った自信もやる気も、溶け出していくような気がした。  その日のジム帰り、久々に夫と時間が合わせられたので、行きつけのケバブ屋に行った。ほろ酔いで取り留めもないバカ話をした後、彼が少し黙ってから「仕事がうまくいってる人はいいなぁ」と言ったので、面食らった。 「あれ、私そんなこと言ったっけ?」 「なんか楽しそう。俺は今、全然ダメだから」  そんなふうに落ち込んで見せたので、肩をバチンと叩いて「イジけるなっ」と怒鳴った。私だって、ちょうどイジけていたところなんだ。 「夫よ、またこうして一緒にお酒を飲もう」  そう言うと、二人で笑った。取りあえず、やってみるか。そんなことを思いながら。
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