最終話「病院の未来」

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最終話「病院の未来」

(事務長 森田静雄(もりたしずお)) 2016年1月  夢を見た。  そこには重苦しい質量を伴った空気が満ちていて、何とも生々しく、不快だった。 「これより厚生局および県による、医療法人橘橙会(きっとうかい) 安座富町(あざとみちょう)中央病院の個別指導を始めます」  その男は、厚生局医療課の指導医療官を名乗った。局からは他に七名の指導官が紹介された。  それはとても寒い日だった。  事務長である森田静雄は、先方の挨拶を、梼原(ゆすはら)院長の隣で聞いた。 「これは健康保険法第73条、国民健康保険法第41条、高齢者の医療の確保に関する法律第66条に基づくものです。誠実に対応願います」  厚生局職員の挨拶に続き、県からは、保健福祉部国保医療課の主査が二人、さらに立会いとして、県医師会の会長である関川常蔵(せきかわつねぞう)が挨拶をした。  それから担当ごとに分かれ、各テーブルで取り調べが始まった。  夕方になり、森田は院長室に呼ばれた。窓からは西日がほぼ水平に射し込み、梼原との間にある僅かな空間を、切り裂くようだった。  森田は事務長の立場から、いつだって梼原の言葉を受け止めてきた。それがどんな理想論でも、一度は耳を傾けようと考えてきた。  だが今回の言葉だけは、容易ではなかった。 「森田さん。この病院は遠くない未来に、地域から必要とされなくなる。医療需要が減少すれば、この病院が存在し続ける理由がない」  重い鉛のような声色で、院長は言った。オレンジ色の光に阻まれて、その表情はよく見えない。 「医師会長ともよく話し合っていてね、認識は同じだ。わが県全体の問題として、当院は確実な方法で、閉院の準備を始めなければいけない」 「ですが、昨年、電子カルテを整備したばかりですよ。これからという時じゃないですか」 「それは私が望んだことじゃない。誰も彼も、わかってないんだよ、この組織がこの地域で、いつ、何をすべきか、もしくはせざるべきかを」  いつも温厚な梼原院長が、これほどきびしく、冷たい言い方をするのを、森田は初めて聞いた。 「確実な方法というのは、どういう意味ですか」 「県も医師会も、もう了承している。黙らせるべきは、橘橙会本部と、森田さん、だよ。さっきの個別指導を見ていただろう」 「個別指導の返還事項は、入院基本料加算と医学管理の一部くらいで済みました。当院では過去の適時調査も、比較的優秀ですよ」 「ではなぜ、個別指導に当院が選ばれた?」 「それは――わかりません。タレコミでしょうか」  気付くと隣に、関川医師会長が立っていた。 「森田さん、我々には合意がある。厚生局も同様だ。だが半端な返還では、この病院は倒れない」  また一人、ふっと現れた。羽鳥(はとり)厚生局所長だ。 「私も悩みましたよ。橘橙会本部のお歴々は縮小ですらなかなかお認めにならない。きっと億単位の返還でもキャッシュを融通するでしょう。埒が明かない」 「あ、あなた方はいったい何を言ってるんです!?」  三人の男の顔が、一様に森田を見つめる。 「個別指導では、明確に答えていただけていない質問が七つほどありました。それでね、これは非常に異例な措置ですが、やはりとさせていただきたいと」  羽鳥はにやにやと笑みを浮かべて言った。 「中断、ということは、つまり――」 「私から言おう。ここから先、指導を数回繰り返し、当院はやがて監査対象になる。その後は、保険医療機関取消処分が待っているというわけだ」  梼原が言うと、関川と羽鳥が笑った。 「先生は、常に先を見ておられる」  森田は言葉を失った。  「本部はこの病院の閉院を認めない。ならば、我々は強制的に終わりを宣言するしかないんだ」  三人を前に、森田は力なく座り込んだ。 「静雄、大丈夫?」  遠くで誰かが呼んでいる気がした。それから、肩のあたりを数回叩かれた。 「う、うぅ……」 「起きろっ!」  急に怒鳴られたのでがばっと身を起こすと、暗闇のなかに、森田の顔を覗き込む妻の姿があった。 「し、椎子(しいこ)」 「あなたね、寝言がうるさいのよ。なんかイヤな夢見てたんでしょ。寝られやしない」  そう言うと椎子は、さっさと自分のベッドに戻り、布団にもぐって背を向けた。  気付くと、額にじっとりと汗をかいている。時計と見ると深夜三時を回っていた。それから朝まで、森田はほとんど眠ることができなかった。  明け方、森田はカレンダーを見た。2016年1月。間違いない。個別指導なんて予定もないし、なぜあんな夢を見たのだろう。 「あのあと、眠れなかったの?」  先に寝室を出てダイニングへ向かった妻が、黒酢ジュースの入ったグラスを手に、戻って来た。 「あぁ……ひどい夢だった」 「梼原先生? そう聞こえたけど」 「出てきたよ、イヤな役で」  森田はベッドに腰かけたままジュースを一気に飲み干すと、グラスを妻に返した。 「あんまり失礼な夢を見ちゃダメよ」  椎子は笑う。学生時代から変わらない笑顔だ。彼女は音大出身で、県内の中学校で音楽教師をしている。医療機関での勤務経験はないが、森田と三十年以上も連れ添うなかで、医療の世界の内実を深く理解してくれるようになった。  森田は今年で五十六の齢だ。椎子は二つ下で、学生時代にコンパで知り合った。彼女は年下でも、当時からしっかり者だった。 「さしずめ椎子はクララ・ヴィークだな」  当時、彼女の友人がそう評すると、椎子は「やめてよっ」と笑った。あとで調べたら、ドイツの作曲家シューマンの妻で、精神を患って苦しむ夫を支えつつ、八人もの子を生み、かつ音楽家としての活動も続けたという強い女だ。美しいピアノ曲は、なるほど確かに椎子を連想させた。  森田は寝室を出て、洗面所へ向かった。暖房を入れていても寒い。湯で洗顔すると、曇った眼鏡をかけてリビングへ戻った。 「南野(みなみの)が、急に今日、来ることになった」 「懐かしい名前ね。元気なの」 「相変わらずだよ、安定のエリートコース」  南野は森田の大学の同期で、なぜか同じ職種を辿り、今は橘橙会本部の病床運営部長だ。  森田は朝食もそこそこに、家を出た。  その日の朝の事務部定例会議は、議題が豊富だった。各課の課長が、順に報告する。  医事係長の佐々木(ささき)より、電子カルテ導入に伴う食事代算定誤りの件、原因判明し対応完了の旨。  連携係長の竹脇(たけわき)より、次年度に予定する地域医療支援病院取得に向けた取組みの進捗。  厚生係長の畑野(はたの)より、新専門医制度に向けた事前準備の進捗。  経営企画係長の渕上(ふちがみ)より、遠隔読影プロジェクトに係る企画書の提出。  人事係長の小菅(こすげ)が体調不良。長期療養の様相。  物品調達係長の塚村(つかむら)より、第一子誕生の報告。 「おぉ、生まれたのか。嬉しいニュースだな」  医事課長の浅利が言うと、総務課長の野村は「男の子だそうです」と答えた。  夕方になり、森田は南野に連絡を入れた。「久々に飲むか」と聞くと、今日中に東京に戻るとのことで、終業後の応接室を使うことにした。  部屋に通すと、彼はコートを脱いだ。ガラステーブルを挟んで、二人はソファに腰かけた。 「急ぐようなら、本題に入ろう」 「そうだな。実は梼原先生から、病棟をひとつ閉鎖したいと、申し出があった」 「病棟閉鎖?」 「やっぱり聞いてなかったか。変だと思ったよ、いきなりの電話だったからな」  ほとんど正夢だなと思った。もちろん梼原は閉院などという極端な思想をもっているわけではないだろうが、病棟閉鎖についてはよく口にしていた。 「南野、県の調整会議の経過は報告してるだろ? 戦略的縮小は先生の持論だからな。特に結核病床については議論がアツいよ」  結核患者数の減少は最近に始まったことではなく、一般病床とのユニット化も院内で議論され続けてきた。これを仮に閉鎖とするなら、雇用の問題や組合との調整があるので、中長期の計画を立てて進めなければならない。梼原が最も気にしているのはそこだ。 「先生は、結核病床だけを想定してるのか?」  南野は小声になって、顔を近づけた。 「お前だから言うが、もしもその先があるとしても、本部長が今の席にいるうちは、縮小なんてできないぞ。因縁がある」  その話は知っている。県からこの中央病院の移譲を受けたとき、橘橙会はその不動産価値を問題視し、老朽化の進んだ建物の改修費用を県に支払わせた。 「不動産だけじゃなく、のれん代も実態に合わないと買い叩いた。我々ならそこまで高められる、なんて皮肉付きでな」 「その意地か……くだらないな。縮小して経常収支率が改善する可能性は考えないのか?」 「本部は率じゃなく額で見るのさ。梼原先生はそのことをよくご存じだ。だから俺に打診してきたんだろうが、見込み違いだったな」  南野の嘲笑が、森田には不愉快だった。  病棟閉鎖については院内のコンセンサスもできていないし、正確な収支見込も立てていない。結核病床閉鎖のあとに続く構想しだいでは、副院長や病棟部長は、反対派にまわるだろう。森田自身も、結核病床の削減は一般呼吸器病床の個室への転換を想定しており、それが閉鎖となると話がまるで違う。そもそも勝手に本部へ話をもって行ったことには、怒りすら覚える。  それでも、南野の笑みに、森田は苛立った。 「普通は逆だよな、俺たちが病院側に縮小を打診して、病院が拒む。それが定番だ。お前んとこの先生は、何を考えてるんだか」  南野が言うが早いか、森田は答える。 「もしも梼原先生がネガティブな未来を見ているとして、俺がその計画を裏付けたら?」 「おいおい、熱くなるなよ。本部とケンカしたっていいことないだろ」 「梼原先生がこの病院とこの地域のことを誰よりも考えてきたことは、俺が一番よく知ってる」  南野は呆れたようにため息をつくと、「変わらないな、お前は」と呟き、立ち上がってコートを羽織った。森田もそれに倣い、二人で部屋を出る。  正面玄関の自動ドアが開くと、冷たい風が肌を刺した。 「森田。移譲の際の因縁がなくても、俺なら、縮小は時期尚早だと判断する」  暗くなったロータリーを、数本の街灯が薄ぼんやりと照らした。正面に、タクシーが止まる。 「お前んとこは、今年度も何とか黒字見込みだろう。地域的に見ても、急性期が溢れかえって患者を食い合っているわけじゃない。2025年以降の人口動態予測なんか、どうして正しいと言える? ヒマな役人かシンクタンクが適当に作った代物かもしれないぜ。いや、それより何より」  少しの間が空いた。 「俺が話した限りでは、梼原先生は病院の終わり方を考えておられた。考えてもみろ。自分の組織に価値がないと考える指揮官を、いったい誰が信用するんだ」  南野は森田の目をじっと見つめた。  心当たりがひとつある。地域医療構想とは別の理由で、いつかが避けられない時代が来ると、梼原が口にしたことがあった。あれは昨年の暮れ、この中央病院の慣例で医師の超過勤務が実態よりも圧縮されている事実を、院長たる梼原がようやく知ったときだ。  ――労働法制がいつか改正されたとして、医師数は、絶対的に足りない。病院の数も今と同じでは、過重労働は改善しないだろう。  梼原は言った。それから、彼は労働環境の改善に力を入れ始めた。 「価値がないなんて、梼原先生は思ってないぞ」  森田が言うと、南野は少し笑った。それから彼は「クララによろしく」と言い、タクシーに乗り込んで去って行った。  明日、梼原院長と話さなければならない。彼は将来、より機能的なよその病院に、当院の人的資源を譲る道を考えているのか。  検証は、客観的にすれば良い。自分には頼りになる部下がたくさんいて、それが可能だ。  時代は確実に、変革の時を迎えている。  いつか梼原の考えが必要となる時期が来るとして、それは今じゃない。普通の指揮官なら、まずは譲るのではなく引き取る道を模索するはずだ。そして部下の検証を待つまでもなく、森田はこの病院が地域にとって必要な存在だと確信していた。  険しい顔をしていると、妻が言った。 「院長先生としっかり話さないとね。それが事務方の本分よ。悩む必要なんてないわ」  妻らしい言葉だった。 「わかってる。ありがとう、椎子」  多くは語らず、森田はそう答えた。  さて、朝が来て、職場へ向かうその足取りは、揚々としていた。そのくせ心は静かなもので、いつか聴いたシューマンの旋律のようである。  これから、この病院の未来を語りに行く。  児戯でも憧憬でもない、大切な(トロイメライ)を。
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