第5話「育休前夜」

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第5話「育休前夜」

(物品調達係長 塚村悟史(つかむらさとし)) 2016年2月  抑えた声で、相手は「タングステン」と言った。  午後一番で内線電話をかけてきたのは、循環器内科の医師だ。  総務課物品調達係では、各部署から日常的に物品請求を受ける。購入担当は係員だが、この日はたまたま係長の塚村が電話を受けた。係長の業務は主に役務なので、2007年の民間移譲を機に改められたその部署名は、実態に合っていない。 「赤嶺(あかみね)先生って知ってる?」  塚村は、正面に座る二人の部下に聞いた。 「多分、去年の10月に来た先生じゃないですか。私は見たことないけど」  出雲亜美(いずもあみ)が答えた。後輩の城戸嘉一郎(きどかいちろう)は、考える仕種をしただけで黙っている。 「新しい先生か。タングステンって聞いたことないけど、皮膚科でもパッチテストで使ってるはずだって言ってた。出雲、検査試薬の購入履歴を調べてみてもらっていいか?」 「試薬なんですね。わかりました」  医薬品や医療用消耗品は、出雲の担当だった。  塚村は自分の仕事に戻った。委託契約や派遣契約の翌年度更新に向けた準備で、今は特に忙しい。2月は、そんな時期だった。  塚村には仕事以外に、早めに確認しておきたいことがあった。  先月の6日、子どもが生まれた。30歳のときに2つ年上の看護師と結婚し、3年目にできた第一子だ。妻の希望で結介(ゆうすけ)と名づけた。  妻の勤め先は同じ県内にある漆目町(うるしめちょう)記念病院で、病棟看護師として働いている。産前は3週間だけ休み、現在、産後八週間の期間中だ。マンションは同じ漆目町に借りていて、妻の実家もすぐ近くである。義母の協力も得られて、共働きはむずかしいことではないと思っていた。  だがつい先週、義母が腰を痛めた。そのため産休後はあなたも育児休業を取ってくれないかと、妻から要請を受けた。 「私も、なるべく早く職場復帰したいんだ。お母さんを頼って保育園を探さなかったのは、失敗だったよね。明日からでも探さないと」  記念病院に併設保育園はなく、ここ中央病院は併設されてはいるが医療職優先という暗黙のルールがあった。  今から探して4月に間に合うのか。無理ならいつになるのか。無認可ならどうか。費用や給付金はどう違うのか。塚村は係員の頃、人事課にいたことがあるので何となく知識はあったが、まさか自分が育休を取るなど想像もしていなかったので、その話を聞いた瞬間に、憂鬱になった。  ―― 今の業務分担で、俺が休んで仕事がまわるのか?  塚村はまずそれを考えた。城戸はまだ二年目で、出雲にフォローしてもらいながらの業務だ。出雲にしたって、役務関係は経験がない。1月末に総務課長の野村に相談したときは、少し驚かれた後で、「業務の調整がつくなら私には却下する理由も権限もないよ」と言われ、そこでまた迷った。 「係長、タングステンの購入実績はないですね。とりあえず、業者に見積を依頼しますか」 「頼むわ」  塚村は、窓の外を見つめた。総務課は2階にある。冷たい寒空は、ガラス越しでもよくわかった。  その日の午後、塚村は1階の医事課を訪れた。  物品調達係と医事係が業務で関わることは少ないが、塚村は独自で、特定保険医療材料の、購入数と請求数の突合に取り組んでいた。医事課に入って担当係員を呼び出す。納見(のうみ)といい、確か出雲と同期だった。 「おす、お疲れ。先月分の突合の資料、できた?」 「あ、すみません。まだ調査中のものがあって」  塚村のいう資料とは、医事側の算定実績のことだ。  特定保険医療材料は、人工関節やカテーテルなど、主に患者の体内に入れられる消耗品のことを指すが、これらはガーゼや注射器と異なり、保険請求が認められている。つまり医薬品と同じように、使用すれば患者や保険者へ費用の請求が可能だ。  業者から請求を受ける数と病院が患者らへ請求した数の一致を確認することは、費用・収益の両面から重要な作業だった。 「わかった。じゃあ終わったら、連絡頼む。あとこの作業は、いずれ俺から出雲に引き継ぐつもりなんだ。そっちは問題ないよな」 「そうなんですか。僕のほうは別に問題ないです」  育休を取得した場合を見据えてのことだが、出雲にはまだ話していない。突合作業の重要性を主張してこの取り組みを始めたのが塚村だったので、と思われないか、少し気が引けた。  自分にデスクに戻ると、今度は同じフロアの人事課へ向かった。厚生係長の畑野の姿が見えなかったので、人事係員の相本(あいもと)に声をかけた。 「ウチで今までに、男で育休とった人ですか」 「そう、わかる範囲で教えてほしいんだ。俺が人事やってたときは、確か一人しかいなかった記憶がある。今は根づいてきたのかな、うちの病院」  塚村が人事課にいた頃、男性の育休取得率を上げようと、課をあげて取り組んだことがあった。 「僕が知る限り、全然根づいてないですね。塚村さん、取るんですか?」  相本に聞かれ、塚村は言葉を濁した。人事係長の小菅(こすげ)が病気で長期療養中なので、相本は上司の業務をいくつか引き受けている。 「いや、まだ決まったわけじゃないけど」  この答え方を妻に聞かれていたら、またケンカになるのだろうなと苦笑した。最初に育休の話をされたときに、大ゲンカをしたのだ。 「看護師はみんなで同じような業務をやってんだから、一人欠けてもフォローし合うのは簡単だろ! 事務はほとんど一人仕事なんだよっ」 「看護師の仕事を何も知らないくせに、ナメたこと言わないで! 事務なんて所詮、ただの雑務でしょ。こっちは患者の命を預かってるの。結介だって、私一人で抱えてるようなもんじゃないっ!」  今思い出しても気が滅入るほど、悪意のある言葉をぶつけ合った。売り言葉に買い言葉という点を差し引いても、お互いが相手を尊重も尊敬もしていないことがわかってしまった、何とも後味の悪いケンカだった。  妻より前に付き合っていた彼女とも、こんなふうに悪意に満ちた言葉をぶつけて別れたことを思い出す。  さて、今は少し反省し、なるべく前向きに育休を取得する余地を探していた。 「保育園は探してるんですか?」  相本が聞いた。 「まだ。今からでも4月に間に合うかな」 「急いだほうがいいですよ。県内では待機児童も多いみたいだし、無認可だからって簡単に入れるわけでもないですから。一応、ウチで使ってる関係書類をお渡ししますよ。時短勤務も検討されたらどうですか」 「ありがとう、妻と話してみるよ」  書類を受け取り、塚村は自分の席に戻った。  タイミングを見計らったのか、すぐに経理係長の篠田が声をかけてきた。同じ係長といっても、塚村より10年近く先輩である。 「塚村さん、さっき循環器のこと話してたよね」  財務経理課は、総務課のすぐ隣だ。 「俺さ、放射線科で、見たことない怪しげな業者が一人でうろうろしてるのを何度か見たんだよ。MRなら放射線科にはあまり行かないよな」  製薬会社のMRを見かけるのは、薬剤部や医局が多い。卸業者は薬剤部が主だ。だが医療機器のメーカーや卸業者であれば、放射線科も有り得る。 「放射線科で、何で循環器なんですか?」  話を聞いていた城戸が聞いた。 「見かけるのは毎回、心カテ室の前なんだ。心カテ室って、放射線科の七番の部屋で、心臓血管カテーテルの検査とか処置をする場所だよ」  篠田の説明に、城戸は「ふうん」とだけ答えた。 「その業者、すごい不審者っぽかったんだよな。密談みたいに周りを気にしながら先生と話してた。あれがきっと赤嶺って医者じゃないか?」  篠田は言った。循環器内科の医長は松原というベテランの医師だったが、赤嶺の加入によって、何かが変わろうとしているのか。  そのとき、総務課の出入り口付近で「出雲さぁん」と呼ぶ男の声が聞こえた。ここはいつだって、業者が入れ替わり立ち代り訪れる。 「調べたんですけど、タングステンは試薬じゃなくての名前ですね」  出雲は大きな声で「金属?」と聞き返し、業者のほうへ歩み寄った。塚村も続く。 「つまり金属アレルギーの検査をされたいってことじゃないでしょうか。僕も循環器内科の専門じゃないから、詳しくないですけど…」  試薬業者が出入りするのは主に検査科で、診療科との接点は少ない。出雲は業者から見積書を受け取り、「800円か」と言った。 「ただ販売はできるんですが、臨床試薬じゃなくて、単なる金属の粉末なんです。メーカー的には、売るけど使わないでほしいらしくて」  業者の説明は曖昧だった。ダメならダメと医師に伝える術もあるが、これでは調達係の一存で買うも買わないも決められない。 「わかった、俺から先生に聞いてみるよ」  出雲から見積書を受け取り、塚村たちはそれぞれ席に戻った。  すぐさま赤嶺医師のPHSをコールする。赤嶺に説明すると、彼は落ち着いた様子で「では倫理審査委員会にかけます」と答えた。パッチテストの用途も聞いてみたところ、金属アレルギーをもっている患者に、冠動脈ステント留置術を予定しているためだそうだ。  それを出雲に伝えると、 「その委員会に諮るのって、私、臨床研究や治験だけかと思ってました」 「僕はどんな些細なことでもルールに則って進めます、だって」 「うわ、私、苦手かも。一番面倒なタイプだなぁ」  出雲は笑った。言いたいことは何となく分かった。  そのすぐ後に、今度は納見から連絡が入った。 「塚村さん、まだ確認の途中なんですが、請求数が購入数よりも、5個も少ないものがあるんです」 「何科で使うヤツ?」 「オクリュージョンカテーテルだから、循環器内科ですかね。心カテ室とか急患室とかで使うと思います。単価は確か、10万以上だったかな」  また、循環器内科か――。  妙な偶然の連続だと思った。偶然でないとしたら、循環器内科には何かある。育休前にやるべきは、役務関連の契約更新だけではなく、この件を解明することだと塚村は思った。  夕方、毎週行われる事務部勉強会の後で、塚村は出雲と城戸に声をかけた。  三人で会議室に入り、育休のことを話した。そうなった場合、二人に負担をかけること。できる限り負担を最小限にしてから休みに入ること。もちろん循環器内科の件も――と続けたところで、出雲が遮った。 「それは、じゃないんですか」  彼女は口を尖らせて言った。 「たまたま係長のところに電話があったけど、本来は私ですよね。それに突合作業も、本当はさっさと私に下ろしてほしいなと思ってたんです」  そう言う出雲を、城戸がまじまじと見た。彼は出雲とは性格がまるで違う。塚村は城戸の本音こそ聞きたかったが、彼は口を開かなかった。 「全部キレイにしてからなんて、無理な話ですよ、仕事は途切れなく続いてるんだから。でも人事も財務も業務はまわってるし、何とかなるんじゃないですか」 「わっ。今、さりげなく毒づいたな」  そういうと出雲は笑った。財務係長の小田切は塚村の同期で、まだ県立療養所だった11年前、県職員として二人そろってここに配置され、民間移譲後もそのまま残留した。彼は誰もが知る怠け者だ。ネットサーフィンが日課で、最小限の業務しかやらない。一緒にされたくはないが、出雲の言葉は塚村の心を軽くした。  その日は18時に職場を後にして、30分後には家で結介を抱き上げていた。息子の小ささを、暖かさを、柔らかさを実感する。好きな瞬間だ。 「お帰り。ちゃんと手は洗ったの?」  妻はキッチンで麻婆豆腐を温めながら、塚村に聞いた。 「今日は、結介のこと、ちゃんと話したいと思ってる」  そう言って洗面所へ向かう。心は決まっていた。育休を取る。それだけだ。上司も部下も本心では賛成などしていないだろう。だがそれを言っても仕方がない。そして、循環器の件は出雲に任せると決めていた。  だが妻は、いつの間にかトーンを変えていた。 「あなたは無理しなくていいよ、私がしばらく育休を取るから」  心ならずも、それで済むならありがたいと思ってしまった。決心が鈍る。だがそれは、問題を先延ばしにしているだけだ。保育園が見つからなければ結局、妻に我慢を強いることになる。 「すぐに保育園に入れないようだったら、俺も育休を申請するよ。入れても時短を使う。今日その話をしてきたんだ、二人の部下に」 「うん、分かった」  妻は、あまり期待していないようだった。  それから結介をあやしながら、二人で麻婆豆腐を食べた。まだ寒い日が続く、二月の日のことである。
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