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第6話「仄かな火」前編
(物品調達係 出雲亜美) 2016年2月
出雲亜美が直属の上司から「その事案」の解決を託されたのは、2月のことである。
主旨は放射線科の付近で最近目撃されている不審者のことで、それだけなら総務係に話を振ればよいが、別件が絡んでいた。
「ちょっと、心カテ室に行ってきます」
出雲は係長の塚村にそう言って席を立ち、ブラウスの上にカーディガンを羽織った。
心カテとは心臓血管カテーテルのことで、処置室は放射線科の中にある。
物品調達係は院内をあちこち歩き回ることが多く、出雲の性に合った。
心カテ室に赴く理由は、技師や医師ではなく、常駐の業者に話を聞くためである。
「お疲れさまです、三好さん」
「あれ、出雲さん。どうしたんですか」
人懐っこい笑顔をこちらに向けて、白衣姿のその男は答えた。出雲より少し年下、小柄でよく日に焼けている。彼はカテーテル関連の卸業者である株式会社サン・イメージの、営業担当だった。
「少し聞きたいことがあって。今、時間ある?」
「大丈夫ですけど…。どうかしましたか?」
三好は雰囲気を察したのか、声のトーンを落とした。神妙な顔をしているが、ガジガジの短髪が少年のようで可愛い。
「三好さん、赤嶺先生とは仲良いですか?」
「そうですね、最近、ようやく慣れてきました」
赤嶺というのは昨年10月に別の病院から来た循環器内科医で、今回の事案で塚村はキーパーソンと目しているようだった。
心カテなどの特殊な分野では、卸業者やメーカーが現場に張り付いて、使用する物品のフォローをする。また慣例的に、医療行為を補助することがあり、これは「立会い」と呼ばれていた。医師の意向を汲み取れる人間でないと務まらない。
「実は、オクリュージョンカテの一月の購入数が、算定数に比べて5個も多いんですよ。何か心当たりありますか?」
「えっ。いやぁ、わかりません。ウチは使ったものだけを病院さんに請求してますから、医事課の算定もれではないですか?」
「まあ、そんなところだとは思うけどさ」
カテーテルなどの特定保険医療材料は、使用すると、決められた価格で患者や保険者に請求することができるので、使用した段階で、医師や看護師から医事課へ情報が伝達される。同時に検収サイン入りの納品書が総務課に回るため、算定数と購入数は、基本的に一致するのだ。ここに差異が生じた場合、医事への伝達もれや算定もれが疑われる。そんな理由から塚村は、以前から突合作業の重要性を主張し、実施してきた。
問題なのは、立会いが発生しないケースだ。整形外科のインプラント手術などでは基本的に立会いが発生するので、もしズレが生じても業者が患者名を把握しており、後追いができる。だが心カテでは夜間緊急使用などの場合に備え、一部の物品が院内倉庫に業者預託として保管されていて、業者は知らぬ間に減っている分についても納品書を発行し、医師や看護師にサインをもらう。ここでズレが生じると、厄介なのだ。
オクリュージョンカテの5つの差異は、まさにそのケースだった。それが不審者情報と時を同じくして判明したので、塚村は何かあると勘繰った。だが彼自身が近いうちに育休に入るため、その調査の使命が出雲に下りてきたというわけだ。
「もひとつ。最近この辺で、怪しい人を見てないですか?」
三好は「あっ」と声を上げた後、すぐ例の神妙な顔に戻った。
「あとで相談に行くつもりでした。彼は同業者で、テイルズって会社の、和知という営業担当です」
「知り合いなんですか」
「まあ、あちこちの現場で会いますから。心カテとペースメーカーで、棲み分けてる病院さんもありますよ」
「でも、ウチとは取引ないですよね」
「赤嶺先生ですよ」
三好によると、赤嶺がかつて大学病院にいた頃、循環器内科の教授選で彼の恩師を陰で支援したのが株式会社テイルズだった。両者はその頃からの蜜月で、ここ中央病院においても赤嶺はテイルズへの鞍替えを画策していると、三好は断言した。
「事情はわかりました。三好さんもここでぐっと下げた見積りを出して、既存業者の強みを見せつけてくださいね」
そう言うと、三好は「勘弁してくださいよ…」と渋い表情を見せた。
彼には今まで、循環器内科の知識をいろいろと教えてもらった。虚血性心疾患や不整脈についてだけでなく、業界特有の慣習や、公正取引協議会が定める立会い規制などについても知ることができた。いろいろな営業マンと関わるが、三好との時間は楽しかった。
心カテ室に来て、収穫はあったと思う。
数日後、出雲は思いがけず赤嶺医師と対面した。
午前8時、職員駐車場に車を停め、寒さに身を丸くしながら足早に職場へ向かった。2階の事務室に入ると、中央の会議テーブルに白衣の男が座っている。塚村が出雲に目配せした。
「あ、おはようございます。えっと」
出雲はコートを脱いだ。
「赤嶺です。朝から申し訳ありません」
「先生は、心カテの件で来られたんだ」
塚村の説明を聞き、胸が高鳴った。出雲は塚村と並び、赤嶺に向き合う形でテーブルを囲んだ。総務課長の野村も、視界に入る位置だ。
「貴重なお時間、申し訳ありません」
彼は話を始めた。内容は、三好の予想ドンピシャだった。心カテの業者をサン・イメージからテイルズに変えたいという要望だ。だが、ここまではっきり申し入れるとは予想していなかった。
「先生、心カテみたいな特殊な分野で、事務方の判断で業者を変えることはできません。他の先生方のご意見はいかがですか」
「私が、コンセンサスを作ります」
そこではっきりした。渦の中心に、赤嶺がいる。
「事務方としては、コストを重要視します。業者を変えてコストアップしたのでは、経営上の問題はもちろん、癒着も疑われかねません」
今度は塚村が説明した。
「その点は、むしろ良い話になるでしょう。すでにテイルズから主要製品の見積りをもらいましたが、再来月の診療報酬改定を見越しても、年間で約1000万のコストダウンになります」
出雲は思わず声を上げそうになった。今までサン・イメージとは何度も価格交渉し、難航し続けてきたのだ。8%への増税時は特にシビアな状況で、三好とケンカのようになってしまった。
「テイルズの見積りは、私も確認したいです」
出雲は言った。もしも事実なら、それを交渉材料にして、三好のお尻を叩こうと思った。
「不審に思われるでしょうから、カラクリも、先にお話します。ここだけの話にしてください」
赤嶺は、テイルズが価格を下げられるのは、医局の意向がメーカーに伝わるからだと言った。医局がどの業者を信頼し、パートナーに選ぶのか。その意向を汲み、各メーカーは適切な業者に安く卸す。安いから選ばれるのではなく、選ばれたから安くなるのだという。
もちろん、メーカー側にも反発や思惑、そしてパワーバランスがある。シンプルに言ってしまえば、彼らは自社の製品をより多く使ってくれる卸業者と組みたいのだ。そしてそんなメーカーや業者たちと付き合うノウハウを、自分はもっていると赤嶺は言いきった。
「うまい話には裏があるといいますが、それを見抜く唯一の手段は、この取引によって相手もちゃんと得をするのかを、確認することだと思っています。そして、逆もまた真です」
出雲はもう黙って聞くしかなかった。
「私は旧知のテイルズのほうが仕事がやりやすいので、こういう要望を出しています。しかし、安くなければ事務の方々には選ばれないよと、和知くんにはよく話しているんです」
この人は、ホントに医者だろうか。出雲は正面に座る男を見つめた。血色が良く、眼鏡の奥で優しそうな目が鈍く光る。信用できるのか、彼を。
「この話が実現するなら、テイルズは町内に営業所を開設するそうなので、可能な限り緊急時も対応できます。心カテの業者変更は、医局の協力なしには実現しません。その意味で、今回は病院にとっても良い機会です」
彼はそう締めくくった。
事務室を出たのを確認すると、出雲は塚村と顔を見合わせ、それから野村課長の方を見た。野村は一言だけ「良い話かもしれないね」と言った。
そのとき、寝ぼけた顔をした後輩の城戸嘉一郎が、事務室に入ってきた。始業時間ぎりぎりは、いつものことだ。ふと、出雲は不審者の存在を思い出した。詳しい説明は省き、ときどき心カテ室付近を見回りしてもらうようお願いすると、城戸は「何で僕が」とぼやいたが、渋々了承した。
それから三好とも話さなければと思い、連絡を入れた。赤嶺の話を伝えると、電話の向こうで低い唸りが聞こえた。
「ありがとうございます。上司と相談します」
出雲としては、赤嶺が循環器内科を完全にまとめ上げる前に、三好から何らかのアクションが欲しかった。
この日から数日、循環器内科に動きはなかった。テイルズの和知が総務課を訪ねることもなく、三好からの回答も出ぬままだった。
3月のある日、大雪が降った。
雪は日曜日の夕方からで、出雲は自宅にこもっていた。一人暮らしのその部屋は、入社時に借りたものだ。ケータイが鳴ったので手に取ると、学生時代からの友人である沙穂からだった。
「亜美~、久しぶり、元気だった?」
「元気だよ。沙穂はどう、新しい仕事は」
「まあまあかな。毎日、知らない人たちの口ん中を見てるよ」
そういうと沙穂はキャハハと笑った。
彼女は、県内の歯科医院で働いている。高校卒業後、通信会社に数年勤めてから「つまんない」という理由で辞め、キャバクラに勤めながら歯科衛生士の資格を取った。
「亜美はどうなの、社内恋愛だったでしょ。医事課の人だっけ。うまくいってんの?」
「あ……。すみません、別れちゃった」
「どわっ! 早くね?」
デカい声だなと思いながら、出雲はソファにどさっと座った。
それから、仕事の話になった。医科と歯科、事務職と医療職という違いはあるものの、彼女とは割と深いところまで話せる。心カテの件も簡単に話した。歯科用材料も結構マニアックな世界なので、いつか沙穂に教えてもらおうと思っていた。
「じゃあ、業者が変わるかもしれないんだ」
「そう。だから今、気合い入れた数字を持って来いって脅してるとこ」
「可哀想に、その少年くん」
少年くんというのは、もちろん三好のことだ。
「でもさ、何でそこまで今の業者にこだわるの? 医者が了解してて、価格も安くなるなら、変わったっていいじゃん」
「うん、まあね。でも医者の思惑どおりってのも悔しい気がして」
沙穂は、少し黙った。
「あたしの勘違いならいいんだけど、もし業者を変えたくない理由が、その少年くんへの恋愛感情から来ちゃってるなら」
突然の指摘に、出雲はドキッとした。
「仕事とちゃんと一線引くように……なんてヤボは言わないよ。不器用なキミには、きっと無理だからね」
「でも私、自分でいうのも変だけど、仕事は本気だよ。結構、アツいです」
電話の向こうで、沙穂は笑った。
「知ってるよ。だからこそ、せめて自覚だけはしたほうがいいと思う。だってブレるでしょ、たくさんの人間とお金が関わる話で、亜美がその一端にいて、推進したり、抵抗したりするとしてね」
言葉を選んでいるのか、また少し黙った。
「もっともらしいことを言いながら、だけどその女の心の真ん中に、仄かな火が灯ってる」
瞬間―― 。心臓をぎゅっとつかみ出された。
出雲は目を閉じ、眉間に皺を寄せた。仄かな火。それは身勝手で、移ろいやすくて、そのくせ容易く壊れてしまう。とても自分の手には負えなくて、いつだって心の中で持て余すばかりだ。
昔から、いつだってそうだった。この友人は軽薄なふりをして、大切な言葉を優しく与えてくれる。
「でも、亜美が羨ましい。あたしは、無理やり探してばっかだもん。仕事も、男も」
「今度は、見つかった?」
「どうだろうね~」
沙穂はまたキャハハと笑った。それから少し、いくつかの取るに足らない言葉を交わして、電話を切った。
出雲は、今、沙穂と話せて良かったと思った。
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