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第7話「仄かな火」後編
(物品調達係 出雲亜美) 2016年2月
その日は、朝から雪かきだった。作業着姿になって外に出ると、もう雪は止んでいた。
「おはよ、嶋野くん」
出雲が財務係の嶋野に声をかけると、彼は黙って小さく会釈を返した。人事係の相本の姿は見えない。あいつは、サボりだろう。
職員たちはあちこち散らばって、雪を撥ねた。
しばらくしてPHSが鳴ったので、出雲は救急車両用のスロープ横に移動した。
「三好です。弊社から、改めて見積りを出させてください。今伺っても大丈夫ですか?」
ほっとした。そろそろ出なければマズい。出雲が職場に戻ると、三好が姿を見せた。
「早速ですが、見積りです。弊社の限界価格です」
そういうと、クリアファイルに入れた見積書を差し出した。数ページがホチキスで留めてある。
「確認させてもらって、また連絡します」
三好が去ると席に戻り、数字を確認した。軒並み、下がっている。血管内超音波プローブなど、94000円から87000円まで下がっていた。
「これができるなら、どうして最初から――」
出雲は苛立ちを覚えた。何度も交渉をしてきたのに、競争相手がいるとこんなにも違うなんて。
テイルズの見積りとも比較してみる。
和知はまだ一度も総務課を訪れてはいなかったが、実は見積書は、赤嶺から受け取っていた。彼が「外には出さないでほしい」と言ったのは、サン・イメージとの交渉材料にするなという意味だ。
数字は概ね拮抗していたが、サン・イメージが若干安い。塚村が、見積書を覗き込んで言った。
「副院長が、サン・イメージにかなり怒っちゃってるんだよ。俺らもバツが悪いよな」
当然のことだ。副院長は経営のことに人一倍きびしく、事務方に対するフラストレーションもある。この見積りが表に出たら、火に油を注ぐだろう。
そのとき思いがけず、事務室に赤嶺が現れ、話があると言った。出雲は狼狽えたが、三人で、中央テーブルについた。
「サン・イメージは、テイルズを下回りました」
出雲は先手を打った。駆け引きは意味がない。
「でしょうね。当院との取引は年間一億近いですから、守るためには不当廉売だってあり得ます」
「科内の意思統一は、どんな状況でしょうか」
「医長は、私に一任してくださいました。でも価格は、むずかしい状況になってしまいましたね」
「先生は、どのような着地点を考えておられますか。副院長のご意向もあるかとは思いますが」
「副院長の感情を利用する気は、ありませんよ」
赤嶺はきっぱりと言った。
「今日は別の話です。テイルズはコンプライアンス上の問題から、立会いについて一部撤退する方針を決めたようです。それは、立会いにはそもそも、違法行為に近しい慣例が存在するからです」
「違法というと……立会い規制のことですか?」
「違います。公取の立会い規制は利益の無償供与防止が主旨で、一定の要件の元で対価を支払えば、基本的にはクリアします」
確かに立会い規制ができてからは、一術式当たり数千円の立会い料を業者に支払っている。
「循環器内科では、患者さんへの説明やペースメーカーのチェック、医療機器の操作など、一部を業者が補助する場合がありますが、これが薬事法、医師法、労働者派遣法等に違反する可能性があるのです。もちろん、医療行為の補助という整理なので、実際にはグレーゾーンですが」
予想外の話で、出雲も塚村も答えに窮した。
「テイルズでは、こういった慣例から少しずつ脱却できるよう、病院側に呼びかけ、協力して改善を進めることにしているそうです。その方法は、MEの派遣契約を結ぶことです」
MEとは臨床工学技師のことである。
「彼らは専門のMEを多く抱えており、自院のMEだけではフォローしきれない病院に対し、一時的にその方法を採ります。そして派遣期間中に、ノウハウを伝達するのです」
そこで言葉を切って、咳払いをした。
「結論から言うと、サン・イメージのやり方は危険です。もちろん今まではどこの業者もやっていたので、責めるつもりはありません。だが彼らは改善を考えていない。病院に嫌われるからです」
「で、でも違法性というなら、むしろ病院側に責任があるのではないのですか?」
「当然です。医長もそれを認識されています」
「それに派遣契約なんて、費用がかかりますよ」
「それは、本来発生すべき必要経費だと、私は考えます。立会いについては、整形も脳外も、きっとこれから変革を余儀なくされていくでしょう」
赤嶺はじっとこちらの眼を見据える。
もう、ダメだ。主張が真っ当すぎる。わずかな価格の優位も、武器にはならないだろう。きっと、完全に、手はない。もしもあるとすれば――。
その時、出雲のPHSが鳴った。城戸の番号だ。目線で赤嶺に詫びつつ、電話に出る。
「出雲さん、不審者です!」
城戸の声はいつになく興奮していた。不審者は和知に間違いない。出雲は確信した。
「嘉一郎、そいつを捕まえてっ!」
出雲が叫ぶと、赤嶺も塚村もこちらを見た。
「私もすぐ行くから、取り押さえてっ」
その男が和知なら、きっとオクリュージョンカテの問題に関わっているだろう。少なくとも人目を避けて、何か後ろ暗いことをしている。
出雲は立ち上がり、駆け出した。
「心カテ室です、行きましょうっ」
出雲が発したその言葉で、赤嶺も無関係でないと気付いたようだ。出雲の後を、二人が続く。
廊下を駆け、放射線科を目指した。
走りながら出雲は、ヤバいなと思った。せっかく友達が忠告してくれたのに、ダメだ、喜んでしまっている。形勢逆転の可能性。またこれからも三好と仕事ができるかもしれないということ。もう仄かな火ではない。まるで、炎のようだ。
出雲たちは、放射線科の通用口を進んだ。
「嘉一郎っ」
倉庫の前で、城戸が男に馬乗りになっているのが見えた。スーツ姿のその男は、抵抗もしない。
「和知さん……ですか?」
出雲は聞いた。男は答えない。
「この人は誰ですか」
赤嶺のその言葉に、出雲のほうが驚いた。
そこに、心カテ室から白衣姿の三好が現れた。今までに見たことがないほど、悲痛な表情だ。
「支店長……」
出雲は「えっ」と声を上げた。
「支店長? あ、嘉一郎、もういいよ」
城戸が解放すると、男は立ち上がってスーツをはたいた。
「支店長って、サン・イメージの? どうして、こそこそ泥棒みたいなことを……」
一同は、2階の事務室に場所を移した。
中央テーブルに、六名が座る。
城戸が取り押さえた男は大垣といい、サン・イメージ安座富町支店の支店長であった。彼の説明によると、支店では抜き打ち的に営業担当者の勤務状況をチェックするため、取引先の病院を訪れることがあるそうだ。
「でも、やましいことは本当に何もないんです」
大垣は40過ぎといったところだろうか、分厚い眼鏡の奥で、小さな目を瞬かせた。
「今、大切なときだっておわかりですよね」
出雲は頭に来ていた。テイルズとの競争で今どんな状況なのか、この男は何も理解していない。
「大垣さんとおっしゃいましたか」
赤嶺が、静かに切り出す。
「率直に聞きますが、1月に、オクリュージョンカテを過大請求されましたね」
はっとして、出雲は息を呑んだ。指摘の内容以前に、何故その件を赤嶺が知っているのか気になった。三好は黙って目を瞑り、唇を噛んだ。
「嘘でしょう…。本当なんですか、大垣さん」
「…いえ、過大請求ではありません。過去の未請求分を、取り戻させていただいただけなんです」
「どういうことですか」
そして、三好も知っていたのか。
「袋を開封して結果的に使用しなかった場合、滅菌物は開けるともう使えないので、今までは請求せず、弊社かメーカーが負担してきました」
赤嶺は頷く。これも慣例なのかもしれない。
「しかし弊社では雑損処理も貸倒もせず、売掛債権として残ります。最近は本社もきびしくて、病院に事情を話して支払ってもらうようにと…」
「だったら、まず相談するのが筋でしょう」
「そんな話は、到底できません。まして他社が参入してきて、とてもそんな状況では…」
「だからって、請求書にねじ込むんですか!」
塚村が怒鳴った。
「医師の押印さえあれば、表面上は何ら不自然なく、請求できたわけですね。このカテは緊急時に使うから、過大請求しやすいとも言えます」
赤嶺はなおも冷静だ。大垣は下を向いた。
出雲は今、自分のなかにある熱が、温度が、とても恥ずかしいもののように思えて耐えられなかった。三好はきっと知っていたのだ。だが話してくれなかった。その理由も、わからなくはない。だけど、やはり裏切られたのだと思った。
うなだれる大垣を見かねて、塚村が言った。
「この件は、上に諮ります。大垣さんは、今回の経緯と顛末を、書面で提出してください」
話し合いは、ここで終わりになった。野村は塚村に「後でまとめて教えてくれ」とだけ言った。
出雲は自宅に帰ると、三好に電話をした。責めるような言い方はすまいと、固く心に決めて。
「支店長さんのしてたこと、知ってたんですよね」
「私が聞いた時、どうして言わなかったの?」
「もしかしたら、事件になるかもしれない。ならなくても、もうきっと取引きはなくなります。それだけ大きなことなんだよ」
責めるな。絶対に責めないって決めたのに。
でも、言葉は止まらなかった。三好は何も言わない。出雲は冷えた窓ガラスに額をくっつけて、外を流れる曾孫川を眺めた。雪解け水か、いつもより水嵩が多い。川面には、月の光が揺蕩う。
「すみません」
絞り出すような声だ。だが謝られても困る。
「入社以来、支店長は、いつも面倒を見てくれた人なんです」
それとこれとは、関係がない。
「本社と病院さんとメーカーとの間で板挟みになって、頭を抱えてるところをずっと見てきました」
「どうしてそういうこと、話してくれなかったの」
「あのタイミングで、病院さんには」
「病院さんじゃなくて、私に!」
声を上げた。みっともない、恋人でもないくせに。
「出雲さん、いつも本当に良くしてくれて、感謝してます」
「そんなこと聞いてないよ」
「私は、多分、3月いっぱいで異動です。この件の決着がついても、つかなくても。4月からは、大宮の営業所です」
「それも、私、聞いてない」
「…申し訳ありません。突然の話でした」
沙穂の言葉が蘇る。もう、言い訳もできない。
ブレまくりだよ、私。いつからこうなっちゃったんだろう。もっといい仕事がしたかったのに、全然、口ばっかりで。
「いなくなる人に、何を言ってもダメだね」
力なく笑うと、三好は「すみません」と言った。
その年の春のお彼岸は、三連休だった。
だが、その前に方針は決まった。事件にはせず、契約は打ち切り、彼らは相当額の賠償金を支払うこととなった。また3月中に消耗品群の総入れ替えを行い、後をテイルズが引き継いだ。
テイルズとは売買契約書も交わされたが、立会いについての記述はない。MEの話も幹部会議の俎上には上がったが、保留となった。
それでも、少しずつ、改善されていく予感がした。
そして出雲たちは、和知とも会った。明るくてさっぱりとした人物だった。2名の専門部隊を連れ、「万全の布陣で臨みます」と力強く明言した。
連休が明けて、作業を大方終えた頃、大垣と三好は、一度だけ総務課に挨拶に来て、野村課長に何度も頭を下げていた。三好は思いの外、清々しい表情だった。自分だけが落ち込んでいるようでバカみたいだったけれど、それでも三好が暗い顔をしているよりはマシだと思う。
よく晴れた昼下がり、野村が3人に声をかけた。
「いろいろ大変だったね。結果的には、年間1000万円以上のコストダウンだ。赤嶺先生からの棚ボタではあるが、実績は実績として誇っていい」
「ありがとうございます」
なぜか城戸だけが礼を言った。
「ただ、来月の点数改定を踏まえて、さらなる価格交渉をしないとね。業者のペースになってしまわないよう、出雲さん、ここからが勝負だよ」
その言葉が胸に刺さった。心には、今も、仄かな火が灯っている。それは、恋とも少し違った。
「はい、頑張ります」
春の陽光に照らし出されて、きっともうすぐ、その正体がわかるだろう。出雲はカーディガンを脱いで、事務室を出た。
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