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第8話「辞める手はず」
(物品調達係 城戸嘉一郎) 2016年2月
同じ大学に通っていた友人が勤め先を退職したと聞いて、率直に言えば「羨ましい」と思った。城戸が今の病院に勤め出したのは、2年前の春のことである。
元々、診療情報管理士になりたかった。だが資格取得の過程で挫折し、それでも医療機関に漠然とした憧れがあったから、一般事務職員としてこの安座富町中央病院の採用試験を受けた。
配属は、総務課の物品調達係である。
現在の担当は一般消耗品で、各部署から文房具や電化製品の要求を受けると、見積りを取り、業者を決め、発注して、納品検収をして、現場へ払い出した後は、業者への支払のため会計伝票を作る。
――退屈だった。
病院では事務はいつだって下っ端だ。特に「医療事務以外の事務」は、地味な存在だと常々思う。
友人は簡単に退職できたようだが、どのような手順で会社を辞めたのだろう。タイミングは、退職理由は、転職先はどうしたのか。
そんなことをぼんやりと考えながら、各部署からの物品請求書を整理していたときだ。
「嘉一郎、今日の勉強会は行ける?」
先輩の出雲亜美から声がかかった。時計を見ると、もう午後3時だ。毎週金曜、この時間は事務部の係長と係員が集まって、勉強会が開かれる。
「あ、行きます」
城戸はノートとボールペンを手に、出雲と一緒に事務室を出た。
勉強会の会場は第二会議室である。講師は持ち回りで、今日の担当は経理係長の篠田だ。会議室はもうすでに十数人のメンバーが集まっていた。
「揃ったみたいなんで、始めるぞぉっ!」
篠田は大きな声を出した。係長のなかでも最年長で、身体もがっしりと大柄だから貫禄があった。
この日のテーマは、医療機関における消費税の取扱いということで、初っ端からワケのわからない言葉が続き、城戸は眠くなった。
「つまり売上のほとんどが非課税であることによって、実質的な最終消費者は、患者ではなく病院ということになるわけだ」
だからどうした。城戸は心で毒づく。
「当院の場合、業者に払う消費税は年間約2億円で、このほとんどがウチの費用負担だ。増税のときに野党は課税0%への変更を求めたが、未だ実現していない」
「課税0%ってなんですか?」
質問したのは、厚生係長の畑野だ。
「不課税…いや免税に近いかな。診療報酬は非課税なので、これが免税に変わると、現状で4%程度の課税売上割合が100%近くまで跳ね上がり、還付を受けられるんだ。ウチだったらその2億がほとんど戻ってくる」
「すごい話ですね」
「だけど結局、実現してないんですよね」
財務係員の嶋野が、畑野に続いて言った。
「ウチで2億なら、全国で数千億でしょう。国がそんなお金を出すとは思えないんですが」
「まあ、だから実現してないんだろうな」
「それより僕は、診療費の不払いを、民事でなく刑事として扱えるよう制度を変えてほしいです」
篠田は話の腰を折られて、眉間に皺を寄せた。
「ウチの不良債権は、一千万円弱です。過去の貸倒れ分を入れたら数千万になりますよ。毎日、督促の電話をしてると、何で食い逃げや万引きは刑事事件なのに、こっちは民事なんだよって思います」
「確かに、そこの制度を変えるほうが、国の懐は痛まないよな」
物品調達係長の塚村が、嶋野に同調した。
「でも診療費は事前に金額が決まってないし、救急車で望まずに来る患者もいるから、いきなりそれはむずかしいんじゃない?」
出雲も議論に加わる。嶋野の上司である財務係長の小田切は、関心がないのかぼーっとしていた。
「悪質なヤツだけでも、何とかしてほしいですよ。真面目に払っている患者さんに対しても、申し訳が立たないです」
「嶋野の言い分はわかる、鬱憤も溜まるよな」
「鬱憤というか……」
嶋野が言葉を濁らせた。彼はいつも押し黙って仕事をしており、あまり話したことがない。
「まあとにかく、医療機関の経常収支やキャッシュフローを巡る環境には、診療報酬以外にもいろんな問題が渦巻いているってことだな」
篠田が時計を見て、締めに入った。勉強会は30分である。講義が終わると、皆ぞろぞろと部屋を出た。全員、事務職員だ。城戸は非生産部門という言葉をどこかで聞いたが、何とも暗い気持ちになったことを覚えている。
「城戸、出雲、ちょっと時間あるか」
塚村に声をかけられ、3人で会議室に戻った。
「近いうちに、俺は育休を取ろうと思ってる。2人には迷惑をかけてしまうんだけど――」
係長の話というのはそれだった。城戸は驚いて言葉が出なかった。契約の年度更新でただでさえ忙しい時期なのに、たった3人しかいない係でそのリーダーが欠けるなんて、どうしたらそんな選択できるんだよと怒鳴りつけたくなった。
だが出雲が「何とかなるんじゃないですか」と言ったので、そこでまた驚いた。先輩がそんなことを言ったら、文句のつけようもない。
「野村課長に話したら、簡単な作業は宮島さんたちにお願いできるよう、話をしてくれるらしい」
野村は総務課長だ。総務課には物品調達係の他に総務係があって、電話交換手として非常勤職員が数名いる。
だが城戸にとって重要なことは、業務がまわるかどうかということよりもむしろ、自分が辞めるチャンスを失ったことであった。
2月は、職場に内緒で転職活動をしていた。
できれば、転職先を見つけてから退職したいと思っていた。面接では、退職は3月末だと嘘を言えば良い。転職の理由は「患者相手では『またお越しください』と言えず、やりがいがない」で押し通すことにした。意味不明だが仕方ない。すでに2回、年休を使って面接を受けた。いずれも中小企業の経理事務だ。不合格だったが、とにかく動き出したことで手応えを得ていた。
3月に、もう一つ面接を控えている。今度は観光ホテルの従業員だ。一貫性がまるでないが、中央病院を辞めるための手はずなのだから、それで良かった。電話したときに向こうの担当者は、人手が足りないと言っていた。中央病院の近くを流れる曾孫川の上流には鹿牟呂高原という観光地があって、近くには温泉街もある。ここで働けるなら最高じゃないかと、胸が踊った。
うまくいけば、5月には退職できるはずだったのだ。それなのに――。
午後五時過ぎに、城戸は武藤紗苗に会いに医事課を訪れた。彼女はこの病院で唯一の診療情報管理士で、かつて目指した職種だ。城戸と同じ2014年度の採用だが、 彼女は新卒ではなく、前職があった。年齢は城戸より10も上である。
同じ年の採用ということもあってか、話す機会が多かった。勝気で率直な人ではあったが、不満や悩みまで話すこともできたので、今回も何となく、今の気持ちをわかってくれる気がした。
だが、人選を誤った。
「今の仕事がつまらないという理由で他の仕事を探しても、成功するわけないじゃない」
「私が資格職だから他の事務職を見下していると期待したんだとしたら、呆れるわ」
城戸は打ちのめされて、自分のデスクに戻った。
それから数日後のことである。
「嘉一郎、ちょっと、時間ある?」
隣席の出雲が、小声で声をかけた。
「あのさ、時々でいいから、心カテ室付近の様子を、見に行ってくれないかな」
そういえばこないだ、心カテ室のあたりで不審人物を見たと、篠田と塚村が話していた。心カテとは確か、心臓血管カテーテルの略だ。
「な、何で僕が」
「あんた、先生に面が割れてないから。心カテ室の隣に倉庫があるんだけど、特にそこをお願い」
「倉庫ですか」
「知ってるかな、特定保険医療材料っていうんだけど、心カテ関連の消耗品も、そこに置いてあるんだよ。ほら、前に篠田さんの講義で言ってたじゃん、増税のせいで交渉はむずかしくなるって」
何となく覚えている。増税分は全体では初再診料の引上げで概ね賄われたが、物品調達係は「ショウカン価格」を見ながら価格交渉をするから大変だったろうと、篠田は出雲を労ったのだ。
「ショウカン価格ってなんでしたっけ」
「償還価格は、特定保険医療材料を使った場合に、患者さんや保険者に請求するときの価格だよ。税込の購入価格が償還価格を上回ることを逆ザヤっていうんだけど、私はみんなが言うみたいに、一つひとつの利ザヤにこだわりすぎる交渉もどうかなって思うんだよね」
城戸はよくわからなくなったので、「なるほど」とだけ言った。
「とにかくその倉庫には、ムチャクチャ高価な消耗品が並んでいるわけ。変なことお願いして悪いんだけど、あんただっていずれ担当になるんだし、これも勉強でしょ」
強引に言い切られてしまった。
本当に単なる不審者情報であるなら、総務係が何らかの院内報を出して対処するはずだ。出雲が動くのは、何か思惑や推察があるからだろう。
仕方なく、城戸はそれから、一日に何度か放射線科に足を運んだ。心カテ室は、一般撮影室、TV室、CT室、MRI室の先にある。
始めてみると、良い息抜きになって、これがけっこう楽しかった。そこでは放射線技師のほか、心カテ専門の卸業者である株式愛会社サン・イメージの、三好という男と仲良くなった。
「出雲さんにはいつもお世話になってます」
最初に彼がそう言ったので、不審人物ではないと判断できた。それから時間を見つけては、彼に業界特有の仕組みについて教えてもらった。
医療機器や医療用消耗品の世界は、特殊な慣例によって成り立っている。
それは一部の診療科において、卸業者やメーカーの担当者が、臨床の現場に立ち会うという点だ。その好例が、整形外科のインプラント手術と、循環器内科の心臓血管カテーテルである。
病棟や外来で使用するような一般的な医療用消耗品であれば、最初から概ね院内の採用品目が決まっていて、SPDと呼ばれる院内物流の委託業者が定数を管理し、使用分を補充してくれる。
インプラントや心カテなどは、三好のような常駐の専属業者が臨床の現場に立ち会い、術式や検査によって、必要な消耗品一式を用意する。だが心カテは夜間などに緊急処置が起きうるので、立会いができない場合に備えて病院には常に一定の消耗品が置かれている。これが例の倉庫で、病院の所有物ではなかったようだ。そしていずれの場合でも、使用したものだけが購入扱いとなる。
心カテの立会いにおいてはモノの準備ばかりでなく、医師に製品の取扱説明をしたり、IVUSや電気生理検査の機器操作を補助したりと、診療行為に近いことまでするらしい。それは何らの契約にも基づかない場合が多く、少なからず法的な問題も抱えているのだという。
「出雲さんはホントによく勉強されてて、手強い交渉相手になっちゃいましたよ」
三好は笑って言った。
「こんなに奥が深い世界なんですね。一般消耗品じゃ味わえませんよ」
「医療機関のなかで事務方さんの役割がどんなに大きいか、いろんな場面で僕は感じますよ。城戸さんはまだ若いし、これからですね」
事情を知らないはずの三好は、城戸にそんな言葉をかけた。城戸はうまく答えられなかった。
事件が起きたのは、観光ホテルの面接を控えた前日のことである。いつものように城戸は時間を見つけて、心カテ室へと出向いた。
そこで、不審者を見つけた。
見たことのない中年の男で、周りの様子をきょろきょろ伺いながら、倉庫を出入りしていた。ナンバーキーの番号も、なぜか知っているようだ。
一気に鼓動が高鳴り、城戸は出雲のPHSを鳴らした。
「出雲さん、不審者です! 心カテ室の横の倉庫です! 怪しいヤツが、出入りしてますっ」
「嘉一郎、そいつを捕まえてっ!」
出雲が大声で言った。
城戸は駆け出して、男を取り押さえた。興奮しながら、城戸は自分に言い聞かせていた。
――おい、騙されるなよ。こんなこと、本来業務でも何でもないんだ。ここ数日間のイレギュラーな出来事に騙されて、お前、ここも悪くないかもしれないなんて、思い始めてないだろうな。
念入りに、城戸は自分を説き伏せた。
これからこの容疑者をしょっ引いて、自分たちはことの真相を明らかにしていく。その真相とは、この男のことだけではない。きっと病院という空間における、知られざる事務職の煌めきにも触れてしまうのではないか。城戸はそう危惧した。
不本意だ。
不本意を自覚しながら、城戸はそれでも、観光ホテルの面接を保留にすると決めた。
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