第9話「減少フェーズ」

1/1
前へ
/23ページ
次へ

第9話「減少フェーズ」

(連携係 青野秀敏(あおのひでとし)) 2015年4月  ついこないだ、小学校6年生になった息子が何気なく口にした質問に、青野は、うまく答えられなかった。 「患者数を増やすってどういう意味?」 「ぶん殴ってケガをさせたり、毒を飲ませて病気にさせるってこと?」  最初は何言ってやがると一笑に付したが、やがて、自分の方が麻痺しているのだと気付いた。  病院に勤めて7年ほどになるが、勤め出した頃は上司らが険しい顔で「患者数が少ない」と言うのを聞いて、大きな違和感を覚えたものだ。  だが患者数を確保できなければ、病院の経営は成り立たない。収入源が、基本的にそこしかないからだ。これは絶対的事実だった。  青野は安座富町中央病院で、この四月から地域医療連携室の連携係を担当することとなった。この「連携」というのがまた、わかりづらい。簡単に言えば病院のだと言ったら、息子はまた怪訝な顔をするだろうか。  4月半ばのある日、青野は公用車で外勤に出た。助手席には、連携係長の竹脇が座っている。 「配置換え早々、外回りで大変だろ。できれば今月いっぱいで終わらせたいな」  竹脇は言った。青野は「そうですね」と言い、ハンドルを切った。  道々には、常緑の木々が立ち並ぶ。葉はまばらに輝いて、木もれ日が車の窓から差し込んだ。  後部座席に、ダンボール箱が二つ置いてある。中には新聞紙が敷き詰められ、アクリルケースが何枚も入れられていた。ケースには、表彰状のような淡黄蘗(うすきはだ)の厚紙が挟み込まれている。 「次は、にしかわ小児科内科クリニックか」 「神塚(こうづか)団地のほうですね」  隣で竹脇が見ているのは、連携医登録病院のリストだ。中央病院では今年度から他院を真似て、近隣の病院やクリニックを対象に、「連携医」という枠組みを作った。登録希望を募り、連携医登録証を配布する。箱の中身はその登録証だった。 「志田先生は、6月には連携医会をやりたいって言ってたなぁ」 「それ、連携医の先生方が集まるんですか?」 「そう。紹介患者を増やす最初の一歩だよ」  まさに営業だ。志田は病棟部長で、地域医療連携室の室長でもある。いわば営業部長だ。  町道7号から県道11号に出ると、通行量がやや多くなり、建物や店舗が増えた。この通りにはMIZORE(ミゾレ)という大きなショッピングモールがあって、安座富町の住人はそこで買い物することが多い。  中央病院では、2016年度より「地域医療支援病院」となるべく、1年以上前から準備に追われていた。この施設基準を取得すると、月に数百万円の増収が見込まれていた。要件では、設備や救急医療体制などの他に、紹介率が重要だ。そこで連携医という形で提携先を公式に認め、紹介患者を増やそうとしている。 「連携医登録証の文面、院長が考えたんだよ」 「そうなんですか。結構デリケートですよね、上から目線でも良くないし、(へりくだ)りすぎても変だし」  結果として登録証には、「連携医として登録させていただきます」と記載された。  梼原(ゆすはら)院長はどちらかというと昔気質で、人と相対する時間や手間を大切にする。その反面、新しい制度にはいつも懐疑的で、電子カルテや医師事務作業補助者の導入も、他の医療機関より圧倒的に遅れている。それを経営戦略的な視点でフォローし、場合により苦言を呈するのが、田崎副院長と志田室長の二人であった。  しばらく行くと、目的のクリニックに着いた。車を停め、名刺と病院パンフレットを準備した。竹脇は後部座席から、登録証を取り出した。  小ぢんまりとしているが、新しくて綺麗な建物だ。今のところ、ここからの紹介実績は少ない。すでに十分な紹介実績を有するところには、志田が竹脇を伴って自ら赴いていた。 「お世話になっております、安座富町(あざとみちょう)中央病院の竹脇と申します。突然申し訳ありません」  連携医は百以上あるので、すべてのアポイントは取らない。休診日と診療時間だけ確認し、あとは飛び込みだ。院長に会えないなら会えないで、受付に登録証と資料だけ渡して帰る。  このクリニックも、そのパターンだった。さっさと済むので、青野はむしろほっとした。 「次は、漆目町(うるしめちょう)リウマチ科医院だな」  隣町である。青野は車を出した。  しばらく行くと曾孫川(ひこがわ)に出たので、車は高架橋を渡った。眼下に見える川面では、空の光が波間に砕かれては、千ほどに散らばっていた。 この川には、何度か息子を連れて行った。  二十歳そこそこで、高校の同級生だった絵美と結婚し、すぐに子どもができた。宏央(ひろお)は少々肥満気味だが、素直な良い子だ。絵美は一度も就職せずに結婚したので世間知らずなところがあったが、青野のする仕事の話をいつも真剣に聞いてくれた。  思えば彼女は常に患者の視点であり、例えばそれは待ち時間の問題ひとつとっても、大切な示唆と鋭い指摘を与えてくれる。宏央が母と同じように、患者数確保というに疑問を持ったことを、青野は嬉しく思っていた。  川を渡りきってすぐの交差点を左折した。ここからは川沿いに、下流に向かって進む。 「そういえば、こないだの会議。初出席なのに、青野はいい指摘をしたと思うよ」  竹脇が、少し笑って言った。会議とは月に二回開催されている、地域医療連携部会のことだ。 「変なこと言っちゃいましたよ。先生方の話はむずかしかったけど、今が過渡期なんだってことはわかりました。それにしても、ウチは幹部の考えがあれだけ違うのに、よく運営できてますよね」 「田崎先生と室長が、うまくやってるんだよな」  三人の絶妙なバランスは、院内の一般的な評価だ。その部会ではまさしく今、施設基準取得に向けて、意見調整が行われている。先日はオブザーバーとして院長と副院長が揃って参加したものだから、末席に座る青野はとても緊張した。  それは火曜日の午後4時から始まった。  議長はあくまで志田であるため、中央に座る。片側に内科医長の金井、整形外科医長の小池がいて、その隣に、院長と副院長が座った。さらに副看護部長の木原、連携室看護師長の細谷、外来看護師長の小谷と続く。その向かいには医事課長の浅利、ソーシャルワーカーの荏田らがいて、最後に竹脇と青野が座った。  中央病院における地域医療支援病院への道程は、複雑な時期に重なったと言える。青野は議論で遅れを取らぬよう、できる限り予習をして臨んだ。 「さて、では始めますか。ご存知のとおり、今年度からは地域医療支援病院になるための取組み、それと同時に、県においては地域医療構想の策定も本腰を入れ始めるところであり、地域における当院の役割を再検証する重要な時期です」  志田はそんな言葉で、部会をスタートさせた。 「現段階では、県レベルでも、二次医療圏レベルでも、まだまだ手探りの状態です。当院が乗り遅れることのないよう準備を進めましょう」  青野は、必死で志田の言葉の意味を追った。  超スピードで少子高齢化が進む日本において、医療・介護の世界では、団塊の世代が75歳を迎える2025年を、重要なターニングポイントとしていた。厚生労働省は地域医療構想の策定を都道府県に要請しているが、これは今後の地域ごとの必要病床数をその病床機能ごとに積算し、具現化していく計画のことである。病床機能は高度急性期、急性期、回復期、慢性期の四種類で、その事前調査として2014年度から、各医療機関がその数を自己申告する制度が始まった。  青野はこの部会に向けて紹介率の報告などを準備していたが、議論の大部分は、地域医療構想がテーマになってしまった。幹部らの興味によって話が逸れるのは、この会議に限らない。 「調整会議で、けっこう揉まれてるみたいですね、梼原先生」  副院長が聞いた。構想策定に向けて県がイニシアティブを取る地域医療構想調整会議には、院長自身が出席している。 「結局は、患者の取り合いだ。情けない」 「ウチは6年後の予定も現状どおりで病床報告していますが、それもむずかしいんですかね」 「いや、まだわからない。県も必死だよ、県南の方はすでに総需要が減少フェーズだから、簡単じゃないんだろう。ここ県央地区はまだマシだが、それでも自己申告ベースでは、回復期病床は圧倒的に足りない。元県立だからなのか、ウチの扱いもなかなかむずかしいそうだよ」 「思桜会(しおうかい)病院は、病床削減と回復期病床への移行を早々に決めたって聞きました」 「総合確保基金が付くとはいえ、ずいぶんと早い決断だな」  志田の発言に、今度は副院長が答えた。 「ウチの場合、障害者病棟をもっていますが、まだ移行が必要ですか?」 「ケアミックスは中途半端だという見方もあります。ウチにHCUが必要なのかどうか」 「金井先生、HCUはともかく、当院が地域医療支援病院を目指していることもお忘れなく」 「そういえば、救急輪番の体制も、今年度中に一新されるみたいですね」 「それに今年度から医師会肝入りでLW(リヴィングウィル)カードも導入された。これも地域包括ケアの小さな一歩というところかな」  医者たちは矢継ぎ早に発言をする。青野はすでに置いてきぼりだった。隣の竹脇は、何やらメモを取りながら、ふんふんと頷いていた。 「しかし、もし病床機能の変更や縮小となると、収支の構造がまるで変わりますね」  浅利課長がそう言うと、院長は眼鏡を外して目頭を押さえた。 「それだけの大転換を強いられる可能性があるんだよ、今の時代は」  重い一言に感じた。  それにしても、幹部とはいえ本来医師であるはずのこの人たちは、どうしてこんなに経営に対する洞察が深いのだろう。事務職なのに不勉強な自分が、青野は情けなくなった。  そして院長が、呟くように続ける。 「そもそもこの国が今よりも医療を必要としなくなるとして、それは悪いことなんだろうか」  これには副院長も志田室長も、怪訝な顔をした。だが青野は急に胸が高鳴って、考えもせず、言葉が突いて出た。 「わ、私も!」  しまったと思ったときには、もう遅かった。会議室の一同が、青野を見る。  自分に問うた。初めてのこの会議で、一体何を発言するつもりだ。まさか息子に質問された程度のことを、ここで(のたま)う気じゃあるまいな――。 「怪我人や病人を、病院が生み出すことはできないし、患者が減ることは、本当は良いことで、いやそれは、経営的にではなく、何と言うか……」  尻すぼみだ。驚くほど幼稚な発言だと、恥ずかしくなった。案の定、会議室には失笑が漏れた。  しかし梼原院長は、笑わなかった。 「今のは、大切な指摘だよ。医療需要は、回復期病床も含め、やがて減少する。もちろん介護施設や在宅に移行させるという政策的側面もあるし、人口減少それ自体は問題だ。だが2030年頃には、県央でも否応なく減少に転じるだろう。一般産業と決定的に異なるのは、我々が需要を創出できないということなんだ」  院長は、そんな言葉でフォローしてくれた。 「そして何より、今の青野くんのような指摘を、我々経営者は忘れがちだ。経営の維持や拡大ではなく、適切な縮小もまた選択肢の一つだよ」 「先生、我々には雇用を守る責任もありますよ」  志田が抑えた声で指摘した。  青野は顔が熱くなった。ああ、まるで新人の頃のようだ。こんな姿は、宏央には見せられない。  そして紹介率の報告を最後に、会議は終わった。  太陽が空のてっぺんに近づいた頃、竹脇と青野は次のクリニックに着いた。  二人で受付の女性に挨拶をすると、やがて院長が現れ、丁寧に挨拶を受けた。 「その節はお世話になりました。宮入(みやいり)さんによろしくお伝えください」 「宮入……と申しますと、医事課のでしょうか」 「そうです、あの元気な女性。算定のことで、私は大変勉強になった」  委託職員だろうか。青野にはわからなかったが、竹脇は知っているようだ。 「ありがとうございます。もう退職したかと思いますが、彼女の上司にそう申し伝えます」  二人で頭を下げ、そこを後にした。車に乗り込むと竹脇が、「地域連携ってのは、別に新しい話じゃないんだよなぁ」と言った。  それから数件を回った後、二人で昼食を取ると、職場へ戻るため再び曾孫川を越えた。  絵美と宏央の顔を思い出す。  青野は若くして父親になったことを、後悔することがあった。特に新しい係の担当になると、いつもこんな弱気な気持ちになる。  それでも、今は宏央の真っ直ぐな瞳に、ちゃんと応えられるような仕事をするしかない。  職場に着いて車から降りると、青野はぐーっと伸びをした。
/23ページ

最初のコメントを投稿しよう!

103人が本棚に入れています
本棚に追加