2016 夏 -1-

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2016 夏 -1-

 カーテンの隙間から差し込む夏の日差しとむっとする不快な暑さ、そしてほんのわずかに感じる頭の痛みのせいで、アラームが鳴るよりも先に目を覚ます。最悪だぁ、美緒は頭をおさえながら枕もとに置いてある時計に手を伸ばした。あと五分は眠れたのに、とがっくりと肩を落としてベッドから這い出るみたいに起き上がる。三階にある自分の部屋から二階にある洗面所に行って、まだ眠っていたいとわがままを言っている頭を起こすために冷たい水で顔を洗った。そうすれば、ほんの少しだけ目がぱっちりと開いて、後ろ向きだった気持ちがちょっとだけ前向きになる。顔を拭き、鏡に映る慣れ親しんだ自分自身の姿を見た。武田美緒、十七歳。どこにでもいる、ごく普通の高校二年生の姿がそこにある。化粧水と乳液を顔に塗りたくって、美緒はまず仏間に向かった。きちんと正座をして、仏壇の扉を開ける。 「おはよう、お父さん、お母さん」  そこには優しく微笑んでいる両親の写真があった。二人に挨拶をして、美緒はキッチンに向かう。  美緒のモーニングルーティン、顔を洗い、両親への挨拶を終えたら、次は肩甲骨のあたりまで伸びた髪をささっとひとくくりにしてシュシュでひとまとめにして、朝ご飯とお弁当の支度と続く。でも、その前にリビングのエアコンをつけておくのを忘れない。こうしないと、キッチンが蒸し風呂みたいに暑くなってしまう。  美緒は事故によって早くに両親を亡くしていて、今は美容師をしている一回り年上の姉と二人暮らし。姉の由梨は美緒よりも早く起きて、自宅の一階で営んでいる美容室を掃除している。だから、朝はとても忙しい。その姉を助けるために中学生の頃から始めた朝食作りだったけれど、今ではすっかり習慣として板についている。朝食作りを始めた頃はしょっちゅう指を包丁で切っては由梨をハラハラと心配させたけれど、今では由梨のお眼鏡にもかなうくらいに上達していた。 フライパンを温めたらベーコンをいれて、カリカリになるまで焼いていく。卵を二つ割ってから、水を少し入れて蒸し焼きにするために蓋をした。美緒も由梨も半熟の目玉焼きが好みで、この焼き加減だけは譲れない。蒸し焼きにしている間にトースターに食パンをいれて、昨日の夜のうちに用意していたサラダを冷蔵庫から出してお皿に乗せると、次はお弁当の準備に入っていく。炊き立てのご飯を姉と自分のお弁当によそい、作り置きしている常備菜や昨日の晩ご飯のおかずの残りも隙間なくつめていく。ちょうど同じタイミングでフライパンの蓋を取って、パンも焼き上がる。それを見計らっていたように、美容室の掃除を終えた由梨もリビングにやってきた。 「おはよう、お姉ちゃん。もうすぐでできるよ」 「分かった。手伝うわ」 トーストとサラダとベーコンエッグ、それぞれを盛り付けたお皿を由梨がテーブルまで運んでくれる。美緒はグラスに牛乳をついで持って行き、二人は席について「いただきます」と手を合わせた。先に起きている分、由梨の声の方が少しだけ覇気があるようにも聞こえる。食卓テーブルには椅子は四つあるけれど、今は二つしか使っていない。慣れたけれど、まだこの食卓に座るのは寂しいような気がしていた。 「そうだ、美緒」  トーストをかじりながら、由梨が思い出したように声を出した。 「俊君にそろそろ髪切りに来るように言っておいてよ。あの子、春から来てないの。もういい加減切った方がいいよ」 「うん、わかった」  美緒は頷いた。パパッと朝食を食べて、歯を磨いたら自分の部屋に戻って、パジャマを脱ぎ、日焼け止めを体中に塗りつけてから高校の制服に着替える。パリッとしたシャツに赤いリボン、チェックのスカート、紺色の靴下。鏡の前で変なところをないかチェックをして、リュックを抱えながら再びキッチンに向かう。お弁当を保冷剤と一緒に保冷バッグに入れてしまう。由梨の分はハンカチで包んで、こちらは冷蔵庫へ。 「あ、忘れてた」  もう一度冷蔵庫を開けて、ペットボトルのミネラルウォーターを取り出した。薬箱からは頭痛用の鎮痛剤を出して、全てをリュックに仕舞う。もう一度仏壇を覗き込んで、お父さんとお母さんの家に心の中で「行ってきます」と言ってから、またリュックを抱えて美緒は美容室まで一気に駆け下りていく。 「お姉ちゃん、お願い!」 「はいはい」  スタイリングチェアに座ると、由梨が美緒の髪にブラシを通した。毎晩、髪を洗った後に由梨が丁寧にブローしながら乾かしてくれるおかげで、美緒の髪はいつもまっすぐで艶やか。友達はいつも「羨ましい」と言ってくれて、美緒にとっても自慢の髪だった。由梨は霧吹きで全体を湿らせて、髪を二つに等分してゴムで縛っていく。もう何年も同じことをしているので、由梨の手は瞬く間に美緒の髪を二つ結びにしていた。 「はい、できた」 「ありがと、お姉ちゃん! いってきます」 「気を付けてねー、俊君に言っておくの忘れないでよー」  リュックを背負い、家を飛び出して行く。スマホの時計を見ると、バスの時刻まであと少ししかない。強い夏の日差しとアスファルトの照り返しの熱のせいで、朝なのにもう溶けてしまいそうなくらい暑い。一歩踏み出すたびにおでこから汗が流れてくる。美緒は走りながらハンカチで汗を拭って、バス停まで急いで向かう。きっと、もう俊は来ているんだろうな。美緒は走りながら俊の事を思い浮かべていた。  美緒が想像していた通り、俊はもうバス停についていて、木陰に入って涼しい顔で参考書を読んでいた。木漏れ日が俊を照らしていて、まるでキラキラと彼自身が光っているようにも見える。美緒が見惚れてため息をついた瞬間、俊は美緒がやっと来たことに気づいて参考書から顔をあげた。彼の黒い瞳が美緒だけを映しこむ。 「おはよう、美緒」 「おはよ、俊」  さっき見えたキラキラはもう見えなくなっていた。それが残念でもあると同時に、美緒は少しだけ安心する。これ以上彼が輝いて見えたら、もう心臓がもたないよ! 隣に立つだけでも少しドキドキしているのに。 「ギリギリセーフみたいだな」  そんな美緒の気持ちを知ってか知らずか、涼しい顔をしたままの俊が腕時計を見ていた。バスが来る時間まであと少し。間に合ったことに、美緒はほっとして胸を撫でおろした。俊は参考書をバッグに仕舞って、腕を伸ばして背伸びをした。美緒は胸を高鳴らせながらそっと俊を見上げた。俊は高校生になってからぐっと背が伸びて、もう美緒は彼が少しかがんでくれないとその目を見ることができない。由梨が「入学祝よ」なんて言いながら勝手に染めた赤茶色の髪の根元は黒くなっていて、パーマもゆるく解けかかっていた。確かに、由梨の言う通りそろそろ整えた方がいい。
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