2016 夏 -2-

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 とても小さな声で俊は呟いた。その優しさをありがたいと思うと同時に、美緒には俊に対する罪悪感が大きくなっていった。俊はただでさえ医学部を目指していて、もう受験に向けた勉強をしていて忙しいはずなのに、どうして私は俊の負担になってしまうのだろう? 美緒は下を向く。今も昔も、美緒は俊に迷惑をかけっぱなしだ。今だって顔を伏せている美緒の事を心配して名前を呼んでくれる。美緒は「いっぱい遊んだから、疲れちゃった」と嘘をつく。きっとこんな嘘は俊にはバレバレに違いない。けれど、彼はそれ以上口を開かなかった。美緒はただここにいるのが苦しくて、早くバス停についてと祈り続けていた。  家に帰れば、美緒と同じように顔色の悪い由梨が出迎えてくれる。今日はもう予約がないから、とリビングで美緒が帰ってくるのを待っていたらしい。 「遅かったね。楽しかった?」 「うん。……晩ご飯の支度、するね」 「いいよ、私がやるから。美緒も久しぶりに遊んで来たら疲れたでしょ? 少し休みなさい」 「それなら、お姉ちゃんの方が……」 「いいから、大丈夫だから」  由梨はエプロンを身につける。リビングのテーブルには、何冊もの通帳が置きっぱなしになっている。きっと美緒の医療費をどうやりくりしようかと考えているに違いない。美緒はそこから視線を逸らして、階段を重たい足取りで昇って行く。自分の部屋に入って、ドアを閉めてその場にへたり込む様に座った。楽しかったはずの気持ちはもうどこかに飛んでなくなってしまって、今は自分を取り巻く現実しか見えてこない。もういっそのこと、消えてしまいたいとすら思うことがある。今みたいな時は特に。由梨や俊の優しさが、今の美緒にとってはまるで体中に槍が刺さる様に痛くて仕方ない。美緒の目の前には鏡がある。その中の自分自身と目が合った。彼女も、ぼんやりと暗い目をしていた。ため息をつくと、鏡の中の美緒の髪が揺れた。  彼女が気がかりには、髪のこともあった。幼かったころはお母さんが梳かしてくれて、お母さんが亡くなった後は由梨が手入れしてくれて、みんなが褒めてくれた美緒にとっては一番の自慢。美緒だって無知なわけじゃない。頭にある腫瘍が自分の命を脅かそうとしていることも理解しているし、それから美緒を救うための化学療法に使う薬の副作用で、髪の毛が抜けてしまうことも知っていた。  これがなくなってしまう、美緒は髪をひと房持ち上げる。つやつやとした、まるで絹糸のようなそれは母と姉が今まで愛してくれた結晶のようなものだったからこそ、それと別れてしまうのは美緒には辛くて悲しいことだった。 ***  検査入院の前に説明があると連絡があり、美緒と由梨は再び病院に向かっていた。検査内容の説明を受け、入院生活に必要なものを親切な看護師が教えてくれた。病院内のコンビニですべてそろえることができると言っていたので、由梨はさっそくそちらに向かう。美緒はコンビニの近くにあるベンチで待つように由梨に言われたので、大人しく座っていた。診察を受けに来た人、入院している人やお見舞いに来た人、病院で働いている人、いろんな人が目の前を通っていく。暇になってしまった美緒はその人たちをじっと眺めていた。すると、視線の先に頭だけのマネキンがたくさん置かれたウィンドウがあることに気づいた。美緒は引き寄せられるように近づいていく。  マネキンはみんなウィッグをかぶっていた。ショートヘアからロングヘアまで、カラーも豊富だった。これらは全て、医療用であると近くに置いてあるチラシを見て知った。美緒もいずれこういうのを被るのだろうか? 人工的なつややかさは、今の美緒の髪とは少し違うように見えた。 「何かうちに用事ですか?」  ぼんやりとウィッグを眺めていると、美容室から出てきた男の人に声をかけられた。美緒はびくりと肩を震わせる。 「あぁ、ごめんごめん。びっくりさせるつもりじゃなかったんだ。ただ、真剣に見ていたから気になっちゃって」  男の人は腰にシザーケースを付けていた。中には何本も散髪用のハサミが入っている、美緒にとっては見慣れたものだ。彼はきっと、この美容室の美容師に違いない。美緒がしどろもどろになっていると、彼は「とても素敵な髪だね」と美緒の二つ結びを見てそう言った。 「……でも、病気になっちゃって。治療で、なくなっちゃうかもしれないんです」  美緒は髪を掴む。見知らぬ人なのに、弱音を吐きだしていた。きっと素性も何も知らない人の方が本音を打ち明けやすいのかもしれない。彼はじっと美緒の話に耳を傾けてくれた。今までずっと姉が手入れしてくれたのに、その時間や意味がなくなってしまうみたいで辛くて悲しい。美緒がゆっくりとそう話した後、彼は美容室に戻っていき、あるパンフレットを持って戻ってきた。 「ヘアドネーションって、知ってる?」  今まで聞いたことのない言葉に美緒は首を横に振った。彼はパンフレットを開き、その言葉の意味を教えてくれる。子ども用の医療ウィッグを作るために、髪の毛を切って寄付する行為をさすらしい。美緒はそのパンフレットに視線を向ける。注意事項や髪の毛をボランティア団体に送る方法、そして実際にそれを使っている子供たちからのメッセージが載っている。美緒の心がそちら側に傾いていることに気づいた美容師は、美緒に「どう?」と聞く。 「ど、どうって……」 「髪の毛、寄付してみない? 31cm以上が必要なんだけど、君の髪なら申し分ないくらいの長さがあるし。それに、なくなってしまうならその前に有効活用するっていうのも、アリだと思うんだけど。僕はね」  明るく笑いながら話す彼に、美緒は頷いていた。美緒の病気が分かってから、暗い顔の人しか見ていなかったから、尚更その提案に心惹かれたのかもしれない。 「それなら、今、切ってもいいですか?」 「え? 今? 大丈夫だけど……いいの?」  美容師は驚きのあまり大きな声をあげる。 「今、切りたいんです!」  気持ちが変わる前に髪を切ってしまいたい。美緒はそう考えていた。美容師は「まあ、お客さんもいないし、どうぞ」とドアを開けた。美緒は美容室に入っていく。シャンプーの甘い匂いはどこも同じなんだ、とまるで家に帰ったような安心感を覚えた。スタイリングチェアに座ってケープをかけられた時、お母さんとお姉ちゃん以外の人が髪を切るのは初めてだなと、ちょっとだけワクワクするような気持ちになる。美容師は美緒の髪を一旦ほどき、小さなゴムでいくつもの髪の束を作っていく。そしてその束を一つずつゆっくりと切り落としていった。ハサミが髪を切る音が聞こえる度、美緒は「ありがとう」「さようなら」「元気でね」と心の中で呟いた。きっとどこかで、誰かのためになってくれると信じて。  一気に髪が短くなっていき、美緒が最初に思ったことは「頭、軽くなった」という事だった。美容師は髪を霧吹きで湿らせて、今度は整えるように小刻みに切っていく。いつも由梨の仕事ぶりを目の当たりにしている美緒は、彼の技術の高さに驚いていた。
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