2016 夏 -2-

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***  検査入院では、転移の有無や脳の血管の位置、そして腫瘍の大きさを調べていくらしい。診察室で話を聞いていた時、由梨が「美緒の腫瘍は悪性なんですか?」と医者に尋ねた。それは美緒の残されている時間の長短にも大きくかかわっているもの。それがとても気がかりだったらしい。 「腫瘍の病理検査は、摘出してからじゃないとできないんです」  医者は淡々とそう答える。由梨は「そうですか」と肩を落とした、きっと良性だったら辛い治療をしなくてもいいんじゃないか、そんなことを考えていた美緒も同じように肩を落とす。二人は用意された病室に向かい、持ってきた荷物を整理し始めた。 「そうだ、お客さんがね、前にこの病院で入院したことがあるらしいの」  由梨がそう話し始める。 「その人は骨折だったんだけど……なんか、ご飯、美味しくないよって言ってた」 「えー! 何で今そんな事言うのよ!」 「ふふっ! もし本当に美味しくなかったら、荷物にふりかけ入れておいたから使いなさい」  そう言って、由梨はお店があるからと早々に帰ってしまった。病衣に着替えた美緒は明日からのスケジュールを確認していると、由梨が「美味しくない」と聞いた食事が届く。美緒はおかずのひじきの煮物を食べた。……確かに、味が少し、いやすごく薄い。普通の味付けに慣れた美緒にはとても物足りないものだった。美緒はスーツケースの中にあるふりかけを探す。見覚えのない袋があったからそれを開けると、ふりかけだけじゃなくて、お菓子がぎっしりと入っている。心の中で由梨にお礼をする。明日会ったら、改めてありがとうって言おう。緊張で強張っていた体が少し和らいでいくのを感じていた。  翌日は一日いっぱい検査があった。病衣を着て、検査室に向かう。そこには由梨と――なぜか俊の姿があった。美緒が驚いて「俊っ?」と名前を呼ぶと、彼は人差し指を立てて口元に当てる。美緒の声が思っていた以上に廊下に響いていたみたいで、美緒は口を噤む。 「由梨姉ぇに連れてきてもらったんだ」  俊は振り返って待合のベンチに座っている由梨と目を合わせた。そして、誰にも聞こえないように声を小さくする。美緒は聞き逃さないように、俊の顔の近くに耳を近づけた。 「本当は検査に付き添えるのは家族だけらしいけど、由梨姉ぇが『美緒の弟です』って言って強引に入れてくれたんだよ」  美緒は「弟」という言葉がおかしくて、思わず吹き出してしまった。緊張でギシギシと固まっていた体が、ゆるりと解けていく。 「俊の方が先に生まれたのにね」  そう笑いながらいうと、俊は「本当だよ」と少し憤慨するように鼻を鳴らしていた。ゆっくりしている暇もない、美緒の名前が検査室から呼ばれた。美緒は持っていたお守りを俊に見せる。 「行ってきます」 「頑張ってこいよ、美緒」 「うん」  俊は美緒の背中を文字通り押していく。美緒は由梨にも「行ってくるね」と声をかけた、由梨の顔はまだ緊張で強張っているように見えた。 「あ、そうだ、お姉ちゃん」  歩き出していた美緒がピタリと止まり、振り返った。由梨は首を傾げる。 「お菓子と、あと、俊を連れてきてくれてありがとう」  由梨はまるで「そんなこといいから」とでも言うように首を横に振った。そして、美緒が大きな扉の中に入っていくのを祈りながら見つめる。どうか無事に戻ってきますように、そんな事ばかり祈るようになっていた。  太ももの大きな血管に、管が差し込まれていく。ここから造影剤という薬品が体の中に入っていくらしい。美緒は身動きを取ることが出来ず、医者の話をただ聞くだけになっていた。  この検査が終わったら、明日は今度は全身のCTを撮影して、転移がないかを確認する。その次の日は、また違う検査をして……それを繰り返した数日後、美緒はようやっと帰る準備をすることができた。由梨が買ってくれたふりかけはまだ残っているけれど、きっとまた使う日が来るんだろうな、と美緒はそれをスーツケースに仕舞う。余ったお菓子は家に帰ったら由梨と一緒に食べよう、俊も呼ぼうかな? そう思った時、由梨が顔をのぞかせた。 「帰る支度できた?」 「うん」 「じゃあ、行こっか」  検査をする前よりも、今日の方が緊張のピークが来ているようにも思える。スーツケースを運びながら、美緒たちは診察室に向かう。検査の結果を聞くために。診察室を開けると、あのベテランのような医者はいなかった。 「武田さんに他の病巣や転移は見られませんでした」  その言葉に二人は胸を撫でおろす。しかし、医者はどこか難しい顔をしていた。さらに取り出したその資料が、その表情の意味を教えてくれるらしい。 「ただ腫瘍が大きく広がっているほか、血管の位置があまり良くないんです」  ぐにゃぐにゃと、まるでミミズが集まったような線の集まり、美緒には理解できなかった。しかし、医者はそれに気づかないふりをしているのか本当に気づいていないのか、どんどん話を進めていく。 「腫瘍に多くの血管が絡みついている状態です」 「それって……どういうことですか? 妹はどうなるんですか?」  由梨が代わりに聞いてくれた。医者は、まっすぐ美緒を見つめる。 「とても難しい手術になる、という事です。腫瘍をすべて取り切れるか含めて、こちらでもよく検討して手術をします。ですが、やはり……後遺症が残る可能性が高くなると、僕は思います」  抑揚のない声が、美緒の体に突き刺さっていく。考えまいと思っていた後遺症の事、今までの事をすべて忘れてしまうかもしれない恐怖が大きな波のように美緒を襲っていく。その恐怖に足をとられまいとするも、美緒の体は小刻みに震えだしていた。由梨は美緒の肩を抱く。大丈夫だよ、なんて言葉をかけることはできなかった。由梨はたった一人の家族である美緒の命さえ助かれば、そう思っていた。けれど、自分の立場に置き換えれば、それは死んでしまうと言われるのと同じくらい辛い宣告なのは十分理解できた。 「ただ、早めの手術をお勧めします。これ以上腫瘍が大きくなるとさらに手術は困難になるほか、また強い症状が現れる可能性もありますので」  そう言って、医者は卓上カレンダーを見せる。そして「いつにしましょうか?」とその決断を迫った。今、それを決めないといけないの? 美緒は拳をぎゅっと握る。下を向いて、大きく息を吸った。美緒はずっと思っていたことがあった。記憶がなくなってしまうのならば、それがなくなってしまう前にどうしてもしておきたい事が二つある。凪や桃子に病気の事を話す事。そして――俊への想い。今の自分が残っている内に、俊に自分の気持ちを伝えたい。美緒は頭をあげる。そして、しっかりと口を開き、こう答えた。 「手術、もう少し待ってください」
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