2016 秋 -1-

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 大丈夫、大丈夫。美緒は根拠のない言葉を繰り返す。まるで自分自身に言い聞かせる祈りの言葉のように、何度も。由梨は諦めたように息を吐き、そうだ、と何か思い出したように口を開いた。 「この前病院に行った時にね、あの美容室に行ってきたの」 「私が髪を切ったところ?」 「そう。お礼を言いにね」  美緒は、お礼? と聞き返す。由梨は一つ頷いた。 「美緒の髪型を素敵にしてくれてありがとうございますって」 「どうして? わざわざ言いに行かなくても、あの時散々お礼していたじゃない」 「お母さんとのね、約束を思い出して」  由梨がお母さんの話をするのは珍しい。亡くなってから、あまり両親のことを話すことはなかった。きっと美緒を寂しがらせてしまうから、と思っていたに違いない。美緒は背筋を伸ばして、由梨の話に耳を傾ける。  元々この家の美容室は、美緒の両親が営んでいたものだった。それを事故の後、独り立ちした由梨が再オープンさせた。美緒が幼かったころ、あのスタイリングチェアに座って、お母さんが髪の手入れをしてくれた。それも由梨が引き継いだことだった。 「誰にも話してなかったことがあるの、お母さんの事で。美緒にも、他の親戚にも」  由梨の声がいつもより少しだけ低くなった。美緒は唇を閉じて、由梨の目を見つめる。話そうか少し迷うように瞳が一瞬揺らいだけれど、瞬きした次の瞬間、その迷いは無くなっていた。 「実はね、あの事故の後……お母さん、少しだけ話をすることができたんだ」  美緒は息を飲んだ。今までずっと、由梨からは「お父さんもお母さんも即死だった」という説明をされていて、それを疑うことはなかった。  あの日、病院に一番早く到着したのは由梨だった。通っていた専門学校が近くにあったから、連絡を受けてすぐに学校を飛び出して、医者の説明をすべて聞き飛ばして、集中治療室の、母がいるベッドに向かった。お母さんは息絶え絶えになっていて、由梨はその時「もうだめなんだ」と悟った。その時はまだお父さんがすでに亡くなっていることを二人は知らなかった。  由梨は、お母さんの冷たくなり始めた手を握った。お母さんは「家族三人、元気でね」と小さな声で話す。いつだって家族の事が一番だったお母さん、最後の最期までこんな事言うんだと思った。 「それでおしまいだと思ったら、まだ唇が動いてたんだよね。でも、もうだいぶ声が小さくなってて、私が口元に耳を近づけたらね……美緒の事、よろしくねって言ってたの。美緒はまだ小さかったから、なおのこと心残りだったんだと思う」  その時の美緒は、きっと連絡を受けた親戚と一緒に病院に向かうタクシーに乗っていた頃だと思う。由梨とお母さんがそんな話をしていたなんて知らなかった。 「どうしてお母さんが生きてたこと、教えてくれなかったの?」  責めるような口調にならないように聞いたつもりだったけれど、少しだけ語気が強くなってしまう。由梨は俯いた。 「だって、もっと早く来ていたらなんて後悔をさせたくなかったから」  由梨が考えていることも、少しだけ大人に近づいた美緒なら分かる。きっとあの時その事実を知っていたら、美緒も美緒を連れてきた親戚も「もっと急げば会えたかもしれないのに」なんて後悔をしていたに違いない。全てが過ぎ去って、あの悲しい出来事も思い出になった今だからこそ、それは心の中でしこりにならず済んだ。 「だからね、お母さんが大事にしていた事全部、私が継いでやろうと思ったんだ。お店もそう、みんなには止められたけど、ここだけは絶対に失くしたくなかったし。それに、美緒の事もお母さんがしたかった分、とても可愛がろうって」  由梨が美緒の髪を手入れしてくれるようになったのは、事故からしばらく経った後だった。お母さんよりも丁寧な手つきで髪を梳いてくれて、その日は何だか緊張したような覚えがうっすらと残っている。美緒は急に黙ってしまった由梨を見つめる。由梨は下を向いたまま、大きく息を吸った。 「でも、美緒のこと病気にしちゃった」 「……病気になったのは、お姉ちゃんのせいじゃない!」 「それでも、お母さんと約束してたのに、美緒の事よろしくねって言われていたのに……それが本当に、お母さんに申し訳なくて」  由梨もずっと、美緒の髪の事が気がかりだった。薬の副作用でそれが失われる可能性があるかもしれないと分かった日から、美緒や母に対する罪悪感よりも先に、お母さんと自分自身を繋ぐものが失われてしまうような絶望感を抱いた。美緒の髪を梳いている間だけは、近くにお母さんがいてくれているような気がしていたから。その時間だけじゃない、もし美緒までも失ってしまったならば、由梨は本当にひとりぼっちになってしまう。その恐怖もずっとまとわりついて離れなかった。由梨はそれを一気に打ち明けていく。 「でも、あの人、切ってくれたでしょ? もし私が美緒に髪を切ってって言われても、できなかったもん。あの人が代わりに切ってくれただけで、少し――ほんの少しだけね、心が軽くなったような気がしたの。私、何でこんな自分勝手な事で悩んでいたんだろうって思って……だから、お礼を言いたくて」  あの美容師はとても穏やかに、笑いながら「それが仕事ですから」なんて言ってくれたらしい。美緒も、あの髪を切ってくれた美容師の事を思い出していた。初対面だったのに、不思議と心の内をさらけ出すことができた。きっとあれは、あの人が持っている力のようなものによって引き出されたんだと美緒は思う。美緒の心も軽くしてくれたあの人は、由梨も同じように救ってくれていた。 「何かあれば、お姉ちゃん、飛んでいくからね」  もし美緒の体に異変があれば、文字通り、飛行機に飛び乗ってでも来るつもりらしい。美緒はその言葉に笑って、リュックからお守りを取り出す。俊が買ってくれたお守りも、もちろん一緒に旅立つ。 「大丈夫だって」  それを由梨に見せた。由梨はそれに向かって手を合わせる。 「どうか美緒の事をお守りください!」  由梨がこれでもかと念じたお守りを、忘れないようにリュックに仕舞い直した。
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