2016 秋 -2-

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 二人は青いガウンを着てゴム製の手袋をはめて、集中治療室の奥に向かっていく。そこにあったベッドには俊の名前が貼ってあり、そこが彼の居場所であることはわかった。けれど、そのベッドに横たわるその姿は美緒が知っている俊とは全く別物だった。上半身には包帯が巻かれ、顔の左半分も包帯に覆われている。母や美緒が来ていることにも気づいていない様子で、彼はぼんやりと天井を見つめていた。痛々しいその姿に、美緒は思わず足を止めてしまった。想像していた以上に、彼の容態は深刻そうに見えた。俊のお母さんはベッドに近づき、俊の耳元で何かを囁いた。すると、彼の目が大きく見開かれて、あたりを見渡すように小さく首を動かそうとしている。美緒はとっさに近づいて、俊の顔を覗き込んだ。見慣れた彼の右目と目が合う。すると、彼の目はとても驚くように大きく見開かれた。 「……なんで?」  とてもしゃがれた声だった。 「修学旅行、抜け出してきちゃった。俊にどうしても会いたくて」  美緒は懸命に微笑む。変な笑顔になっているかもしれないけれど、そんな事に気を遣う余裕はなかった。 「……美緒ちゃん、ちょっとお医者さんと話があるから、俊の事見ててもらってもいい?」 「はい。いや、うん、わかった」  俊の母を見送って、美緒は近くにあった丸椅子に座る。その手を握りたいと思っていたけれど、包帯が巻かれていて、うかつに触れることも出来そうにない。それが歯がゆくて、美緒は唇を強く噛んだ。口の中で鉄の味が広がっていくくらい。俊はそれに気づいたのか「大丈夫だから」と途切れ途切れに話す。そんなわけないのに、どうしてそんな事を言えるの? 泣き出しそうになるのを堪えて、美緒は俊に自分の顔を近づけた。右目に自分の顔が映りこむ、俊は少し戸惑うように視線を揺らした。美緒はそっと、彼の名前を呼んだ。その名を口にすると、愛しさとは少し異なる気持ちが溢れ出す。 離れたくない。一緒にいたい。俊に死んで欲しくない――私だって、生きていきたい。  その気持ちを胸に、美緒は俊に語りかける。 「あの時、一緒にいてくれてありがとう」  その言葉に俊はピンと来ていない様子だった。美緒は「お父さんとお母さんが亡くなった後だよ」と言うと、彼は頷く。 「ずっと私の側にいてくれてありがとう。俊が近くにいてくれたから、私、今まで生きてこられた」  俊は眉をひそめた。途切れ途切れになりながらも、出てきた言葉は相変わらず美緒を心配するものだった。 「でも、これから、美緒を一人にする。一番大変な時に」 「大丈夫、大丈夫だよ、私。頑張るから……絶対病気になんて負けたりしない」  美緒の瞳がどんどん光に溢れていくような感覚を俊は感じ取っていた。 「俊とこれからも一緒に生きていきたいから、私、絶対に死んだりしない。俊の事ずっと待ってる……けど、俊の怪我が治って戻ってきた時には、きっともう私は俊の事を覚えていないかもしれない」  手術の後遺症は、二人を別つような残酷なものだった。けれど、美緒の瞳は変わらず光り続けているように俊には見えた。 「だからさ、待ち合わせしよう?」 「待ち合わせ?」  力強く美緒は頷いた。 「あの、いつもの公園で待ち合わせするの。そしてもう一度初めから出会って、私は絶対、また俊の事を好きになる。この気持ちは魂に刻み付けておくから、だから……!」  美緒は息を吸い込む。今、ここにいる自分が『美緒自身』であるうちに伝えたかった気持ちだった。何が起きても、もう一度俊の事を好きになれますように。自分自身に言い聞かせるように、美緒は大きく息を吸って言った。 「どうか私の事を忘れないでいて、昔の私も、今の私の事も、全部」 「……当たり前、だろ?」  美緒はハッと顔をあげた。俊の瞳が潤んでいる。俊は何度も頷き、柔らかく微笑んだ。美緒が大好きだった笑顔がそこにある。 「すぐに戻るから。美緒も、体には気を付けて……」 「うん。あ、メールするからね」  その言葉に俊が首を横に振った。美緒は「メール嫌いなの?」と一瞬不安になるが、そうではないみたいだった。 「手紙がいい」 「どうして?」 「俺、美緒の文字好きだから。手紙の方が安心する」  そんな事を言われると、何だか恥ずかしくなってしまう。美緒は耳が赤くなっているのが俊にバレないように、深く頷いた。 「わかった、約束する。……いつまで送れるか分からないけれど、絶対に送るから」 「俺も、落ち着いたら返事、書くようにするから」 「うん」  看護師が近づいてきて、面会時間の終了を告げた。二人はもう一度見つめ合い、美緒は「さよなら」と手を振って集中治療室を出る。ちょうどそこに、医者との話を終えた俊の母親がいた。どうやら、美緒が出てくるのを待っていたみたいだった。美緒はガウンを脱いで近づいていく。 「ねえ、おばさん。俊の怪我って治るんだよね?」  俊のお母さんが顔を曇らせるのを見て、それは聞いてはいけなかったのだと美緒は気づく。ごめんなさいと言おうとしたら、おばさんは顔をあげて美緒を安心させるように小さく笑う。その笑い方は、俊によく似ていた。 「私も直接患部を見せてもらったけれど……痕が残る可能性は高い、と思う」  ガソリンを浴びてしまい、そこに火がつき負ってしまった火傷だから、そう簡単に綺麗にするのは難しい。何度も皮膚の移植手術を受ける必要もあって、完治するのは当分先になりそう。おばさんはそう話した。その言葉が美緒にとってはショックなものだった、けれど、彼女は顔をあげる。それに驚いたのは俊の母親だった。俊の姿を見たらきっと泣き出してしまうに違いない、そう思っていたのに、まるで全てを受け止めるようにしっかりと自分の足で立っている。
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