112人が本棚に入れています
本棚に追加
2025 春
三月に入り暖かい日が増えて、寒かった冬はとっくにどこかへ行ってしまった。昨日、桜の開花宣言があった。家の周りの桜の木ももう満開に近い。由梨は「いい日になったな」と空を見上げた。透き通った青色が広がり、まるで吸い込まれそうなくらいの快晴、新しいスタートを切るにはうってつけだった。母から譲り受けた黒留袖を着た由梨は、美容室の扉に『本日休業』と大きく書いた紙を貼りつけていく。
「あら、由梨ちゃん。そんな格好をしてどうしたの?」
近所に住むおばさんが珍しい由梨の姿に感嘆の声をあげた。
「今日、うちで美緒と俊君の結婚パーティーやるんです」
「そうなの? それはそれは……おめでとうございます」
「ありがとうございます」
由梨はおばさんに深く頭を下げる。顔をあげると、おばさんの目が潤んでいるのが分かった。
「良かった、美緒ちゃんも俊君も……本当に良かった」
溢れそうになる涙を拭って、おばさんは「今度、美容室にお祝い持って行くね」と言って去って行く。由梨も同じ気持ちだった、美緒も俊君も、二人がそれぞれの試練に負けずに立ち向かってくれて本当に良かった。
二人は今日、婚姻届を出しに行く。式を挙げるつもりはないと言っていたので、その代わりに自宅で結婚パーティーをすることにした。雅弘は昨日の晩から部屋の飾りつけに一生懸命で、当の本人たちや姉の由梨よりも張り切っている。留袖も彼が納戸の中から見つけて由梨に着付けをしてくれた。
「由梨さん!」
「桃ちゃん、凪ちゃん。ありがとう、来てくれて!」
「すいません、こんな早くに」
桃子と凪、それぞれがあのイヤリングを耳に付けてやって来た。二人ともパーティードレスを着て着飾っている。
「美緒、まだ出しに行ってないですよね?」
「うん、家に居るよ」
「じゃあ、美緒にこれを……」
そう言って二人は、大きな箱を由梨に見せた。少しだけ開けて中を見ると、由梨は驚いたように息を飲む。鼻の奥がツンと痛くなり、涙が出そうになった。
「結婚パーティーのメインなんだから、これくらい着飾ってもいいよねって凪と二人で話したんです」
「……よし! お姉ちゃん、腕によりをかけて美緒を綺麗にしてあげないとね」
三人で自宅スペースに向かうと、美緒が普段着のワンピースを着て部屋から出てきたばかりだった。雅弘が一晩かけて施した風船やキラキラと光るテープの飾りを見て、驚いている様子だった。当の雅弘もばっちりスーツを着て、今もせっせと飾りつけを続けている。
「やっぱり、いつもの格好で行くつもりだったんでしょ~」
「桃ちゃん、凪ちゃん」
美緒は二人のイヤリングを見ながらその名を呼ぶ。しっかりとパーティードレスを着た二人と留袖を着る由梨、それに比べると美緒のこの格好は逆に浮いてしまうくらいだった。美緒はワンピースの裾のあたりを摘まむ。きっと「どうしよう」なんて考えているに違いない。凪と桃子は顔を見合わせて、持ってきた箱を開けた。
「私たちからの結婚祝い」
「ほら、着替えて着替えて! 由梨さんがヘアメイクもしてくれるって!」
そのまま、美緒と由梨は美緒の部屋に再び戻って行ってしまった。やり切ったと満足げな表情の桃子と凪は、ハイタッチをしていた。
「何なに?」
飾りつけに夢中だった雅弘が振り返って二人に尋ねる。桃子は意味深に笑って「後でのお楽しみ、です!」と胸を張る。凪も何だか楽しそうに笑っていた。その時、チャイムが鳴る。雅弘がドアに向かうと、本日のメインのもう一人である俊が小さく頭を下げていた。
「いらっしゃい。桃子ちゃんと凪ちゃんももう来てるよ」
「俺より早く来てどうするんだよ……おっす、久しぶり」
リビングにいる二人に片手をあげると、桃子は手を振って、凪は「元気そうだね」と返していた。
「俊君の服装もテキトーすぎない?」
桃子が頬を膨らませて、俊の姿を見ながら文句を言い始める。ラフなジャケットにシャツとジーンズ。春らしい格好ではあるけれど、せっかくの結婚パーティーなのに、と桃子が小さな声で文句を言った。
「何か、僕の方が気合入り過ぎてて恥ずかしいなぁ」
「いいんだよ、俺はこれで。こんな立派なパーティーだってしなくても……」
リビングの飾りを見ながら俊が言うと、凪は「それだけじゃないでしょ」と口を開いた。
「国家試験の合格祝いもあるんだから」
「そうそう。おめでとう、俊君」
「……ありがとう」
まだ寒い二月の初旬に、俊は医師国家試験を受験した。先日合否が発表されて、俊は無事に合格。四月からは美緒が通っている病院で研修医として勤めることになった。
「専門っていうの? 何にする予定なの?」
「脳外科」
「あー、美緒ちゃんのためにでしょ?」
「それもあるけど……純粋に興味があるんだよ」
美緒の病気が分かった日から、俊なりに情報収集したり勉強する機会が増えた。美緒の後遺症の事も大きく影響したのか、彼女を同じ病で苦しむ人を一人でも減らしたいという願いが大きくなっていくことに気づき、彼はそれを専門とすることに決めていた。
「実家はいいの?」
「兄貴もいるし別にいいかなって。それに、俺は皮膚科で働ける顔じゃないからなぁ」
そう言って、俊は顔の左側を掻いた。そこには、彼が修学旅行の時に負った痛々しい火傷の痕跡が残っていたままだった。彼の肌の色とは異なる、焼け爛れた赤い皮膚。見ている方が何だか痛々しいくらい。じろじろと見るのは失礼だと思ったのか、凪がふっと視線を逸らすのを感じた。俊には変な目に見られるのはもう慣れたものだった。
最初のコメントを投稿しよう!