緋色の傘

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僕が育ったのは山と野原に挟まれた荒地を無理矢理切り開いて新興住宅地にし、建売住宅を並べた場所だ。  昔はキツネが人を化かしたり、時には旅人を取って食う化け物が出たと小学校の時に授業で習った。 僕はそんな土地に一人で住み、都会に通勤している。近くに電車は通っておらず、バスで三十分かけて最寄りの駅まで行く。 彼女に気づいたのは、ある雨の朝だった。 僕はいつものバス停で傘を差し、バスを待つ人の列に並んでいた。彼女は人々から少し離れて並ぶ人を眺めていた。 顔は緋色の傘で隠れて見えない。けれど首から下だけでも素敵な女性だと分かる。  首を覆う黄色いスカーフ、濃紺のジャケット、淡いピンクのブラウス。ジャケットと共布のタイトスカート、裾から伸びる黒いパンストに包まれた細い脚。底が紅色をしたダークブラウンのレインブーツ。傘を持つ手にはめた薄いレースの白い手袋。  それから雨の日には必ず彼女の姿を見かけるようになった。 僕は雨を心待ちにするようになり、天気予報で翌日が雨だと気持ちが浮き立った。 何度か彼女を観察していると奇妙な事に気が付いた。彼女はバスに乗らないのだ。一人傘を差したままバス停で佇んでいる。  誰かを迎えに来ているのだろうか。雨の日だけ夜勤明けの彼を迎えに来ているとか。それにしては予備の傘を持っていない。  不思議に思った僕は次の雨の日、休みを取っていつもの時間にバス停に行った。  いた、傘を差して彼女が立っている。少し離れて様子を伺う。傘をくるくる回し、つまらなそうにしている。バスが来た、降りてくる人には見向きもしない、乗る人はざっと見て、すぐにあさっての方向を向いている。相変わらず傘が邪魔で彼女の顔は見えない。  何本かバスを見送り、彼女は歩き出した。十五分ほど歩き、町はずれの一軒家に入っていく。この先はもう野原が続き、人家はない。  僕は次の雨の日、思い切って彼女に名刺を渡し、連絡をくれるように頼んだ。  傘越しに名刺を受け取った彼女は、スーツのポケットにしまうと振り返って歩き出し、傘を少し持ち上げて挨拶をしてくれた。それを彼女なりの了解だと受け取った僕は嬉しさのあまり、一日中仕事が手につかなかった。 その夜、彼女からメールがあった。 『今晩は、今朝はお話できなくてごめんなさい。素敵な方に声をかけていただいて、とてもうれしかったんですけど、恥ずかしくて、立ち去ってしまいました』とあった。  僕は連絡があったことで有頂天になり、すぐに『メールをもらってとても嬉しい』と返信をした。すると、彼女からもすぐ返信のメールが届き『名刺のお名前とても素敵なんですけど、ご両親がつけて下さったのかしら?』とある。さらに舞い上がった僕は、亡くなった両親がつけてくれた名前だということ。物心つく前に父親の仕事の都合で引っ越してきたこと。兄弟はおらず、係累もないこと。など聞かれもしない事をメールした。  送ってから、しまった、自分の事ばかり送り付けてしまって彼女の事を何も聞かなかった、気を悪くしたんじゃないか、と思ったが『そう、じゃあ寂しいですね。そうだ、今度の雨の日、いつもの時間にいつものバス停でお会いできませんか、ゆっくりお話したいですし』と返ってきた。浮かれ切った僕は了解のメールを返した。 僕は天気予報が雨を告げるのをひたすら待ち、永遠とも思えるその時間にまだ見ぬ彼女の顔を思い描いていた。 想像の中で彼女は、はにかむような笑顔を僕に向ける。二重の眼、血色のいい頬、片方だけの八重歯。おかっぱにした艶やかな黒髪。  僕の妄想はとどまる所を知らない。 ついに雨が降った。朝、バス停に行くとすでに彼女は傘を差しながら僕を待っていた。今日は傘の色が違う、くすんだ赤茶色だ。 彼女は僕を誘うように振り返ると歩き出す。 町はずれの一軒家についた、彼女は黙って家に入っていき、傘の影から僕を手招きする。 玄関を入る、薄暗い、目を凝らして中を見た。気が付くと彼女が目の前に立っている。そしていきなり畳んだ傘の先端を僕の胸に突き立てた。とがった石突きが胸の真ん中に深く刺さる。痛みはない、ただ氷を差し込まれたような冷たさが胸を襲う。僕は何が起きたのかわからず、衝撃で息ができない。 傘の向こうに彼女の顔が見えた。 死人のような顔色、血走った目、ザンバラの白髪。顔中に広がる皺と染み、大きく開けた赤黒い口と黄色い乱杭歯。  子供の頃教わった人食いの名は山姥だった。 傘が開かれる、ゆっくりと石突きが引き抜かれ、貫かれた心臓から血が噴き出す。 遅れてきた痛みと、失せていく意識の中、赤茶色の傘が血を浴びて、鮮やかな緋色に染まっていくのが見えた。 了
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