とある客

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 私の放課後はほどんど店番に占められる。部活も委員会も入っていない。 店の名前は紅夢屋。カフェのある小さな古本屋だ。  学校は嫌いではないが、無性にひとりになりたくなってくるので店番ができるのはありがたい。特に雨の日の店番が好きだ。本を読むのに雨音のBGMはよく合う。  雨と言えば不思議なお客がいる。カンカン帽をかぶった女性のお客さんだ。いつも雨音がしたなと思うとやってくる。年齢不詳という言葉がよく似合うひとだ。子供ではなく、お年寄りでもないとしか言いようがない。何度も来ているが、まともに話したのは一度きり。カフェで紅茶を注文した時だ。 「あのう」 「はい」 「マスカット入れてもいいかしら」 「マスカット?」 「紅茶のポットに」 お客さんは小さなハンドバッグから小瓶を取り出した。マスカットが数粒入っている。うちは持ち込み禁止だ。 「ダメかしら。雨の味がするの」 「マスカットを入れると、ですか」 お客さんはうなずいた。 「困ります」 「そうよね」 「でも、私はお客さまがお呼びになるまで本棚の方を向いております。その間お客さまが何をされるかは私にはわかりません」 お客さんは小首を傾げるとことこと笑った。お客さんが帰るとポットの中に数粒のマスカットが沈んでいた。飲んでみるとなんとなく雨の味がした。  その後もお客さんは雨の日にやってきては紅茶を頼み、マスカットをこっそり入れていく。その話を店主である祖母にすると「そんなお客さんいたかしらん」と言う。ポットを見せても首を傾げて「覚えてないわねえ」と言う。祖母は物覚えのいい方なのでこれもまた不思議だ。 「あ」  雨音がする。雨が降って来た。天気予報では降らないと言っていたのに。私は慌てて傘立てを出し、外のワゴン内の文庫本にビニールをかけた。例のお客さんと鉢合わせる。お客さんはふっと笑っただけで無言で私の横をすり抜け、本棚を物色し始める。 「いらっしゃいませ」と言ったが、恐らく聞いていないだろう。古書店に来る客は自分の世界に入るのがひどく速い。  中に入ろうとして傘立てに水色の傘がさしてあるのに気づいた。例のお客さんの傘だろう。予想外の雨なのにずいぶんと準備がいい。そう言えば突然の雨でもこのお客さんは濡れたのを見たことがないし、その辺で慌てて買ったようなビニール傘を持って来たこともない。いつもお洒落な水色の傘を持って来ている。 もしかしてこのひと、雨の神さまなのかもしれないなと荒唐無稽なことを考えながら私は中に入った。  雨音が強くなった気がした。
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