君があまりに消えそうだから

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 朝目が覚めて起きると、外は雨は止んでいた。カーテンを開けると、気持ちのいい朝の日光が部屋に入ってきた。ベランダには彼女と一緒に植えた、小さな木の葉っぱに落ちた雨の雫が宝石のように光っている。窓を開けて息を吸い込むと、雨上がりのアスファルトの匂いがした。その日の晴れは、まるで大泣きしてスッキリしたような、そんな晴れだった。しかしそんな天気とは裏腹に、僕と彼女の間は曇り空だった。  毎日の習慣で、朝飲むコーヒーの湯を沸かしている間に、郵便をチェックする。いつもこの行程は彼女がしている。珍しくまだ寝ているのだろう。無理もない。夜通し泣いて泣き疲れたのだろう。郵便受けには実家からの手紙と、友人の結婚式招待状、それから昨日のコンテスト会場から一通の手紙が入っていた。 「第二十三回市民写真コンテスト受賞部門変更のお知らせ……」  要約すると、風景写真で受賞していたが「人物が写っている」との報告を受け、確認したところ主催側の手違いだった、とのこと。僕は寝起きの頭で理解するのに少し時間がかかった。あの写真に彼女が写っていると視えるのは、彼女と同じような存在だけだった。だからこそ、彼女とその友達は僕の撮った写真を評価してくれたのだ。おかしいなあと、頭を掻いていると「くしゅん!」と彼女のくしゃみが聞こえた。昨日雨に当たって風邪をひいたのだろうか。 「おはよう。風邪ひいちゃったかな……おーい、翠?」  一向に返事がない。布団を剥がすと彼女の姿はどこにもなかった。家出だろうか。いや、しかしさっき彼女のくしゃみははっきり聞こえた。クローゼットを全部引き出し、人が入れそうな棚という棚を全部開け、風呂の中や、近所まで探しに出たが彼女は見つからない。 「翠! 翠! どこにいるんだ!」 「ここだよ」 「翠!?」  彼女の声のする方に目をやると、机の上の写真が目に入った。それは彼女が大事そうにしていた、僕が現像してあげた写真だった。彼女が僕の事実を知った時、ぎゅっと握ったせいか、写真は少し歪んでいる。そっと写真を持ち上げると、そこには、僕が視えるはずのない彼女が写っている。そして写真と一緒に手紙が添えてあった。 『ずっと私を撮ってくれてありがとう。  あなたが撮ってくれた写真、みんなに毎回自慢していたの。  本当にどれも素敵だったんだよ。  こんな風にあなたは私のことを撮っていたの。  ね! 綺麗でしょ?    でもね。  いつか消えてしまうのは、あなたの方。  私の命は人間のあなたよりも長いの。  本当は私も怖かったの。  あなたがいなくなることが。    綺麗な私をせいぜい大事にしてよね。  これでもう、消える心配なんてないでしょう?   消えそうだからって不安になる必要はないでしょう?    優しいあなたのことだもの、きっと泣いているのよね。  ねえ、そんなに綺麗に泣かないで。  あなたはあなたを生きて。  言ったでしょ、大丈夫だって。  私は、ここにいるよ』  彼女は写真になってしまった。彼女が写っていたところに彼女として収まっていた。それは僕がずっと思い描いていた彼女の写真だった。綺麗な横顔に、華奢な四肢。優しく微笑むような笑顔に伝う雨。そして空気に揺蕩う長く、美しい髪。疑問符のつけようがないくらいに、完璧な写真だった。僕がずっと欲しがった、その場が潤い、豊かに引き立てられるというもの。その世界が、彼女がそこにいると感じられる温かい写真が僕の涙で濡れていく。 「僕は……君が好きだっただけなのに! 僕はいなくなんてならないよ、翠……たとえ結婚なんでできなくたって、ずっと君の髪を梳かして、手を繋いで家まで帰るし、踊り終わった君の頭を撫でるよ。写真だって、僕には視えなくたって、喜ぶ君の笑顔のためならいくらでも写真を撮ったのに! こんなの……こんなのって……」  これでもう二度と、彼女は僕から消えていなくなることはないのかもしれない。ずっとずっと、綺麗な完璧な彼女のまま写真の中にいてくれるのかもしれない。彼女の髪が好き、笑顔が好き、言葉が好き、彼女が好き。心の底から愛していた。君が側にいてくれさえすれば、本当はそれでよかったのに。僕がもっと言葉にすればよかった。ファインダー越しじゃなくて、やっぱりもっと彼女の楽しそうに踊る姿を見ておけばよかった。僕は後悔してもしきれなかった。  涙を隠す雨は生憎今日は降っていない。泣きながら何度も、何度も彼女の名前を呼んだ。彼女の名前、「翠」という名は翠雨(すいう)、初夏の緑に降る雨の名前だそうだ。僕は彼女にぴったりの名前だ、そう思った。雨が似合う、緑の匂いがする彼女に。ああ、あの匂いが恋しい。 「確かに君はここにいる。でも、この写真を見て嬉しそうに笑う君はいない。あの緑のいい匂いもしない。僕は君を本当に大切にすることができなかった……許してくれ、許してよ翠。だから、写真なんてもういいから、戻ってきて……」  そう願って何年経っても、彼女は戻ってこなかった。駅の待合で待ってみても、雨の日にカメラを持って散歩に出てみても、彼女の姿を見ることはできなかった。朝の日課も、もう一人でこなすことに慣れてしまった。彼女のいない生活に慣れてしまった。朝の郵便チェックをすると、受賞を知らせる頼りが入っていた。  翠、今日は雨の写真のコンテストで受賞したよ。  初夏の緑に降る雨を撮ったよ。翠を撮ったよ。  綺麗に撮れているかな。  なあ、また沢山褒めてくれよ、翠。
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