君があまりに消えそうだから

1/6
前へ
/6ページ
次へ
 彼女の長い髪はいつも、決まって緑のいい匂いがした。夏になりかけているのだろう。湿気を帯びた梅雨入り前のこの季節、少し汗ばんだ彼女の首に長い髪がひっついているのが妙に色っぽかった。カラン、とアイスコーヒーの氷が鳴って、水滴がコップを伝う。 「ねえ、散歩に行こうよ」 「外は雨だよ。それでもいいの?」 「いつも言ってるじゃん。雨だから行くんだよ」  気分転換、と彼女は白く細い腕を天井に伸ばして伸びをする。窓の外ではサラサラと降る雨が薄灰色の世界を作って初夏の緑を濡らしている。昼間でも電気をつけないと部屋は薄暗いことに今更気がつく。時刻は午後四時を半分過ぎた頃だった。彼女が大体、僕の仕事待ちに飽きてくる時間だ。 「行こうよ、置いて行っちゃうよ?」 「うん、ごめんごめん」  玄関で可愛らしい花柄の傘を持った彼女が僕を呼んだ。僕はノートパソコンを閉じ、予め用意された散歩用のバッグを提げて彼女の手を引いて外へ出た。外に出ると少し風が強く、海風の潮の匂いに雨の匂いが混ざって重みを持っていた。アパートの階段の錆はそんな雨風にさらされて、僕たちが踏むたびにギシギシと鳴っている。  彼女とは大学時代に知り合った。その日も雨が降っていて、傘を忘れた僕は「傘なんて別に忘れていません。ただの休憩です」という顔をして、講義終わり、最寄り駅の待合で冷たい缶コーヒーを飲んでいた。しかし待てども一向に雨が止む気配はなかった。 「傘、忘れたんですか?」 「えっ」 「その缶コーヒー、何分飲んでるんですか」  クスッと笑って長い黒髪を耳にかける彼女がそこにいた。こんなに綺麗な人で、いい香りがする人がこの狭い駅の待合にいて、気づかないはずがないのだが「私も傘、忘れちゃって」なんて照れ臭そうに言われたら、一目惚れが身体を走って大半の思考が飛び散った。  それから僕と彼女は駅の待合で話すようになった。彼女は自分のことをあまり多く話すようなタイプではなかったが、気さくで明るくて、よく笑って活発で、おまけに美人。女の子に免疫がないわけではない僕でも、そんな彼女と話すときはいつだって少し緊張した。そして三ヶ月ほどが過ぎた頃、意を決して彼女に告白をした。なんの捻りもない告白だった。彼女は頬を赤らめて頷いてくれた。今まででこれほど嬉しかったことはない。  それから2年と数ヶ月が経って、僕の就職以降だらだらと同棲生活を送っている。特別、結婚を前提にというわけではなかった。ただ、なんとなくきっとその言葉をお互い口にしなかった。なんとなく。 「私ここの公園好き!」 「本当に好きだよなあ。もう一体何度きたことか」  彼女は「だって好きだから仕方ないじゃん」と言って、子供のようにはしゃいで遊具の上に登って僕に手を振って見せたり、控えめに木からこちらを覗いてみたり、さらには傘を放って踊り始めた。その度に彼女の長い髪がそれはもう美しく靡いた。段々びしょ濡れになっていく彼女は艶やかで、髪先から飛び散る水滴でさえ、絵になった。雨の似合う彼女の踊る姿は、音楽なんてなくたって素敵な映画のワンシーンのように見えた。  雨の得意じゃない僕だが、この瞬間だけはいつも、雨が止まないことを祈った。もう少しだけ、もう少しだけ、この雨が長く続きますように、と。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加